雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

白い人・黄色い人/遠藤周作

実に居心地の悪い小説だ。

だが本来、小説とはそういうものだろう。

「白い人」はドイツ占領下のリヨンが舞台である。

ナチスに協力する無神論者の主人公と、拷問にかけられようとも神を信じ、レジスタンスに協力する旧友。

限界状況における倫理的行動がテーマだと思うのだが、主人公は背徳的な歓びに心を囚われて、裏返しの倫理的存在ではある。

神を信じ、来世での救済を信じることの裏返しで、信仰する者を唾棄し、その倫理的行動をせせら笑うことが喜びであるのは、ナチス占領下というやがて訪れる悲劇的結末においてのみ、生き生きと描かれていると思う。

「白い人」は神ありきの世界の倫理的行動の裏表である。

これに比べ「黄色い人」の舞台は、終戦近い神戸である。

結核の発症で兵役を逃れた主人公、敵国に留まることにした棄教者。

主人公は友人を裏切って、友人の婚約者と関係を結び、聖職者でありながら異郷の女と関係を結んでしまい、聖職を追われた棄教者の二人が、終戦近い神戸の特高に探られている。

「白い人」とほぼ同じ時間軸でありながら、神なき世界で生き延びることが描かれている。

やがて死すべき存在の二人は、生き延びることで何が得られるのか、と作者は問うているのだと思った。

この二つの中篇小説は答えを出さない。

読み手の前に問は、出されている。

信仰によって地獄を生きることと、信仰を捨て生きることの意味。

なかなか難しい小説だと思う。

 

白い人・黄色い人 (新潮文庫)

白い人・黄色い人 (新潮文庫)

 

 

<レンタルなんもしない人>というサービスをはじめます。/レンタルなんもしない人

Twitterでアカウントを見かけて、本がでてるので読んでみた。

ネットアカウントの方の本を読むのは2人目だと思う。

いい意味でも悪い意味でもなく、ネットで見たままの本だった。

Twitterで知っている人が、意外な一面とか裏話とか期待しても、ここには知っている以上のことはない。

この本を読んでTwitterを始めるかと言うと、そうは思えない。

ネットが一つのメディアとして成り立っているのだから、その上で本を読むのはどういう意味があるのかと考えてしまうが、いまのところ無いような気がする。

TVドラマのノベライズより、質が低いと思う。

 

 

それは「うつ病」ではありません!/林公一

何となく借りてみた。

先日のガザニガの本を紹介していた精神科医の方だと思う。

中年にもなって久しいと、「うつ病」はちょっと身近に感じる。

大したこともやっていないが会社員生活の中で、メンタルに問題があって辞めてった人は何人もいるし、辞めないまでも社内でハラスメントを繰り返しているらしい人の噂も聞く。

今にして思えば、あれはうつ病だったのかな、と思う人もいるが、本当にうつ病だったのかは知らない。

会社という組織の中では、色んなことが起きていても、様々なフィルタを通して情報が伝わる。

もしかして、過去にうつ病の方が近くにいたのに、手を差し伸べられなかったかもしれない、メンタルの問題があって辞めてった人から業務を引き継ぐ時に、間違った対応をしていたかもしれない、そしてそれは明日にでも自分にも起こりうるかもしれない、そんなことも考える。

歳を重ねることでの恐ろしさの一つだと思う。

この本は20のケーススタディに対して、著者のコメントが加えられてうつ病とは何か、擬態うつ病と名付ける状態、そして社会や医療の抱える問題が説明されていく。

基本は論理的かつ平易に、しかし時に情緒的な言葉も飛び出す辺りが、著者らしい味なのかと思う。

病気をアピールするやつほど健康だという感覚は、ほぼ正しい。

しかし、うつ病を擬態することで、逃避し甘える人は、本人なのか周りなのかわからないが、何らかの問題が存在している、というのもありそうなことだ。

もし、自分がうつ病かもと思っている人は、この本は読まないほうが良いかもしれない。

擬態うつ病であることが分かって、せっかく見つけた言い訳を、否定されてしまうかもしれない。

とはいえ、そういった悩みを抱えた方が、このブログを見てるとは思えないので、そんな意見は大きなお世話というものだ。

 

それは、うつ病ではありません!  (宝島社新書)

それは、うつ病ではありません! (宝島社新書)

 

 

イスラーム入門/中田考

イスラム世界は、間違いなく今後の世界の一つの軸になる、と思っている。

99のキーワードで、イスラム世界の歴史、政治、社会、文化などをざっと俯瞰できる本。

到底、数ページの話だけでは理解できたとは言えない。

入門としては良いのだけれど、そこからどう掘っていくかは考え中。

 

 

 

眠れぬ夜に読む本/遠藤周作

何となく図書館で借りた。

遠藤周作を初めて読んだのは、子供の頃に家にあった孤貍庵シリーズのエッセイだったと思う。

なので、純文学作品よりエッセイの印象が強い。

そんな孤貍庵シリーズのエッセイなのだが、江戸趣味の話や、スピリチュアル系の話が多い。

あとがきを見ると1987年、文庫の初版が1996年である。

思い出してみるとニューサイエンス、ニューエイジ系の本や音楽が溢れていた頃だった。

遠藤周作の小説作品は「海と毒薬」ぐらいしか読んだことがないが、何となく小説の方も読んでみても良いかもしれないと思った。

 

眠れぬ夜に読む本 (光文社文庫)

眠れぬ夜に読む本 (光文社文庫)

 

 

<わたし>はどこにあるのか/マイケル・S.ガザニガ

どこかのSNSか何かで、この本のことが言及されているのを眼にして、ちょっと読んでみようかと思った。

副題は「ガザニガ脳科学講義」である。

原題は「Who's in Charge? Free Will and Science of the Brain」

 

人間にとって脳とは中枢であり、肉体的な死よりも脳死が死であると判断するぐらいに重要な臓器であろう。

脳が「わたし」の全てであり、脳のメカニズムを解明すれば、つまり生化学的な反応が「わたし」という現象なのではないか、そういう疑問をもし抱いたことがあったら、この本は興味深く読めると思う。

著者のガザニガ氏は認知神経科学の世界的権威だそうである。

脳の機能について様々な実験例から探っていき、私が「わたし」であると認識すること、そして人間とはどういった生き物なのか、という疑問に答えていく。

例えば、脳梁離断手術した癲癇患者への実験により、脳が様々な認知モジュールの並行処理であることを突き止めていったり、入ってきた情報に理由や説明をつけたがるインタープリターモジュールの存在など、脳の働きがスリリングに暴かれていく。

もともと、スコットランドのギフォード講義という講演を元に書かれているため、専門的な内容でありながら読みやすい。

結局、人間は脳が肉体という乗り物を操作しているだけではないか(本の中にも出てくるが、MIBのエイリアンのイメージ)という疑問には、違うというのが結論として示されている。

読み終わるのが惜しい本に久しぶりに出会った。

 

〈わたし〉はどこにあるのか: ガザニガ脳科学講義

〈わたし〉はどこにあるのか: ガザニガ脳科学講義

 

 

芝生の復讐/リチャード・ブローティガン

何となく読み返してみる。

数ページの長さの短編小説や、散文詩のような文章の詰まった作品集である。

面白いのもあり、侘しいのもあり、良くわからないのもある。

結局のところ、ブローティガンの作品の、何が良かったのか分からなくなる。

面白いのか面白くないのか自問しながら読み進むうちに、読み終えてしまう。

しかし、ブローティガンの作品というものは、そういうものだったのかもしれない。

 

芝生の復讐 (新潮文庫)

芝生の復讐 (新潮文庫)