雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

燃えつきた地図/安部公房


探す者と探される者が交換可能な存在同士であることを容認するならば

燃えつきた地図 (新潮文庫)

燃えつきた地図 (新潮文庫)


失踪した主人を探して欲しいと依頼する女。
物語はその女の住む団地への上り坂の描写から始まる。
女の依頼そのものへの疑問を抱きつつ、失踪した男の手掛かりを探していく。
女の弟という男、失踪した男の部下、失踪した男が出入りしていたと思われる喫茶店、それらが二面性を持ちながら、主人公の前に現れる。
そして、依頼主である女の二面性が確信に近くなってくると、主人公の住む世界が反転し、主人公は失踪してしまったかのように記述が続く。
ここにあるのは何だろうか?
存在の不安、とかいった、似非哲学的な言葉だろうか?
主人公は失踪した男の手掛かりを探していくうちに、「そこに在る」ものへの違和感のようなものにとりつかれているようだ。
その違和感の帰結としては、自分自身の存在への違和感であり、失踪者への転身なのだろう。
これは長い長い助走の物語だ。
主人公は失踪者探しをしていくうちに、自らが失踪者になってしまったのではなく、失踪するために、失踪者探しの仕事を引き受けたのではないか、そう思われてくる。
だが、失踪した先は、まだこの世界の内側の存在なのだ。
あくまで、ここでは無いどこか、非「ここ」に存在している。
存在そのものの基盤は、無条件に容認された上で、ここでは無いどこかへ旅立っていく。
だがそれは、「いま」「ここ」への否定でしかない点で、まだ、安部公房は現実に対して絶望してはいないような気がする。