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雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

雨太/正木秀尚


神話的な構図からいつか見た光景へ

雨太 (ジェッツコミックス)

雨太 (ジェッツコミックス)


何故この作品を手に取ったのかもう憶えていない。
殺し屋と女が逃げて、次々と追手が迫ってきては、追い払われる、そして最後にカタルシスがある、そんな話である。
背景にあるのは、消滅してしまった共同体を存続させようとしている「儀式」、「贄」として選ばれた女、儀式の「執行者」、そんな(バタイユがいかにも描きそうな)神話的な構図である。
基本的にクローズドである共同体が、その寿命を延ばすためには「外部」の力を必要とするが、外部の力が持つ偶然性を共同体内部で予測可能なものにするのは、儀式であり祭礼であり(経済人類学的に言うなら)市場であり交換であり贈与という場であり、そのことにより「ケ」は「ハレ」を通過することで活性化する。
ただし、「ハレ」がコントロール可能な限りにおいては、「ケ」は活性化し、安定が保たれるが、そのバランスが保てない場合にはある種の物語が生じるであろう。
むしろ、意図的にアンバランスな状態を出現させることで、共同体は活性化するということもありうるだろう。
経済活動はその根底において過剰を消尽することを内包しており、神の手によっていつか訪れるであろう平衡状態などあり得ず、絶えず不均衡を発生させる消尽のエネルギーは必ずしもバランスシートに現れるものでもない。
主人公の女が抱える過剰なるものと、共同体が抱える過剰なるものは、消尽されることでその生命を維持する。
殺し屋は共同体の取引窓口であり、トリックスターとして、この物語の不均衡を産み出し、過剰なるものの普遍経済のキーとなっている。
この作品においてはアンバランスから出発し、カタルシスを通して、共同体の再生への暗示、新しき共同体の暗示が示される。
それぞれの運命は、一瞬の交錯と衝突でそれまでと異なった状態へと遷移する。
「ハレ」と「ケ」、「聖」と「俗」、共同体の「外部」と「内部」、そんなキーワードでこの作品を眺めることも可能ではあるが、それがこの作品を言い尽くしているとは思えない。
逃避行の先に辿り着いた土地のイメージが、いつか見た光景のように心に響く。
それは、複雑な入り江と大洋に二面する南国の太陽に照らされた半農半漁の村落の風景であり、夏の終わりにバイクで走り抜けた旧道の棚橋峠の手掘りトンネルの向こうの南島町あたりの光景と重なり合ってくるのだ。