雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

ニュー・アトランティス/ベーコン


きもちわるい(その2)


読み終わってからふと思い出したのだが、この物語の展開は、ドーマルの「類推の山」と設定が似ている。
どちらも絶海の辺境にある完結した世界が舞台だ。

ユートピアの物語として、非日常的な時空を設定する。
ベーコンは、当時の知の大前提としてのスコラ哲学との隔絶と理想的世界の実在を設定するため、たどり着けない海の向うとした。
様々な探検家により、世界の海が探検されつくされたとしても、ニュー・アトランティスはその実在は知られない。
何故なら空間的な距離に加えて、倫理観の距離があるからだ。
すなわち、これまでの知の在り様や、それらの知に基づいた世界の認識などでは、たどり着けない所に、ユートピアがあるのだ。

ドーマルも非日常的な時空としての、絶海の辺境を設定する。
だが、そこにあるのはユートピアではない。
様々な経歴の主人公たちが、山を登る行為において、別の次元に至ろうとしている。
この場合の絶海の辺境は、(怪しげな科学的説明で)不可視の領域として設定されている。
つまり、日常のすぐ裏側にあるかもしれない不可視の領域の物語として、シュルレアリスム的であると思う。

戻って、ベーコンの場合は、ユートピアの物語としては成立するかもしれないが、シュルレアリスム的ではない。
むしろ、生きたニワトリに雪を詰め込むという、冷凍の実験をした際の悪寒が原因で亡くなってしまったというエピソードの方がシュルレアリスム的かもしれない。


ニュー・アトランティス (岩波文庫)

ニュー・アトランティス (岩波文庫)