雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

青空/ジョルジュ・バタイユ


雨・青空

青空 (晶文社クラシックス)

青空 (晶文社クラシックス)


「青空」とは皮肉なタイトルだ。
1935年に書かれ、1957年に公にされた、バタイユの小説である。
これを読んだのは、おそらくバタイユを知って2冊目か3冊目ぐらいだったはず。
当時本当にこの本を読んで、どう思ったのだろうか?
汚辱と猥褻と不安と啓示の物語に、自分の何を重ね合わせていたのだろう?
眼球譚」「マダム・エドワルダ」は生田耕作の、「エロティシズム」は澁澤龍彦の訳でバタイユに触れる中で、天沢退二郎の訳でこの本に触れたことで、何か違ったろうか?
結局のところ、不安が伝染しただけだったような気がする。
物語自体は主人公の私的な嗜好と出来事により、ネガティブな状態に堕ちてゆく。
だが主人公はそれを望む一方で、そこを突き抜けた至福の瞬間を希求している。
内的な不安は外的な不安とのアナロジーで理解され、内外の転倒により外的な不安の極大化と超越さえ望むようになる。
逆もまた然りであり、外的な不安が内的な不安を加速化するのだから、メビウスの輪のように外と内は分かち難く、不吉なことばかりの連鎖を示す。
これは物語というよりは、思考の過程であり、最初に書かれた1937年の欧州という背景なしには、理解し難いものがある。
だが、それを差し引いたところで、バタイユのこの思考過程は理解し難いものがあるように思う。
負の過程を突き詰めることで超越に至り啓示を得る、という道筋は、熱狂的なカトリック教徒だったが故なのではないだろうか。
つまり、倫理的正しさを突き詰めて超越に至ることとの相似関係であり、倫理基準を前提とし、その前提を共有し得ないのであれば、この思考過程は成立し得ない。
不吉なもの、黒いもの、穢れたものの系列は、至福なもの、白いもの、美なるものの系列と同じく、日常という俗の世界から聖なるものとして徴づけられている。
この、聖化の過程に倫理基準が入り込んでいる。
結局のところ、バタイユの理解し難さの一因にもなっており、永遠のマイノリティであることを示していないだろうか。
もう一段階進んで、普遍経済学に至るための準備だったのだろう。