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雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

ロミオ・エラー/ライアル・ワトソン

理系


意図せるせざるに関わらず

ロミオ・エラー―死の構造と生命体 (ちくま文庫)

ロミオ・エラー―死の構造と生命体 (ちくま文庫)


この本は、死と生命について、生物学的な観点からの考察、とでもまとめられようか。
気になったのは、様々な事例を紹介し、生と死の境目を明確に定義できないこと、生物としての死は自らが本能的に感知できること、死とは単なる無ではないこと、そういった主張なのだが、引き合いに出される事例は例外的なものであり、例外でない方が全てではないのと同じく、例外もまた全てではないことを忘れるような錯覚をさせる。
もともと学術的な本ではなく、エッセイなのだと言ってしまえばそれまでだが、膨大な引用文献のリストは何だろうか。
ライアル・ワトソンが嫌いなのではない。
死とは何かを考える上で、この本も含め、ライアル・ワトソンが提示する観点は興味深い。
死んだと思った人間がよみがえる話(タイトルにもなっている、ロミオの誤り)、臨死体験者が見るイメージの共通性、そういった話題から、死への恐怖感というのは薄らいでゆくのかもしれない。
だが、生物学的な死と個人的な死との関係において、同一化することなく、その議論は成り立たないのではないだろうか。(当然、社会的な死については、射程には入らない)
生というフェーズから死というフェーズに移り変わること、そのことの意味として、今まで生きてきたように、死んでいることはできないのであり(日本語としてちょっとおかしいかもしれない)、その彼岸へのガイドではないのである。
例えばチベットの「死者の書」では、生から死へ、死から再生への諸段階が描かれ、そこで何をすべきかが説かれる。
だがもし、この本がそういったガイドブックであったなら、それは胡散臭いものと見てしまうと思う。
そして、ワトソン自身も丁寧に避けようとしている。
もうひとつ、メディアの事故死に対する過剰報道が人々の死への隠れた欲望を満たしているという点を言及している。
だが、それはバタイユ的に言うなら死への欲望なのではない。
死に触れることでの快楽への欲望を満たそうとしているのだ。
死に至るまでの生の称揚がエロティシズムであるなら、死に触れることでエロティシズムは加速する。
ある種のサルではボスの交代があると、新ボスは前ボスの子供を皆殺しにし、それでメスザルたちは発情するという。
埋葬の儀式化は死の禁忌を強化し、強化することでそこに触れたときの快楽を高める。
メディアによる事故死の報道は、非凡な死であることを強調し、死の価値を高め、それに触れることで、意図しているとかしていないとかに関係なく、人々の欲望を煽っているのではないだろうか。
また、有名人の死、犯罪の報道も同じ系列といえるだろう。
意図せるせざるに関わらず、である。