雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

田紳有楽・空気頭/藤枝静男

どうやってこの本に辿り着いたのかはもう覚えていない。
藤枝静男という名前を、学校の授業では聞いた覚えがない。
私小説と言われる分野に興味はなかったので、作家の系譜のようなものから辿り着いたとも思えない。
だがともかく、この本に辿り着いてしまった。


この本には、「田紳有楽」と「空気頭」という二つの中篇小説が収録されている。
あらすじにも紹介にもならないが、こんな小説である。


「田紳有楽」は庭の池に沈められた偽骨董品の焼物たちの独白で始まる。
骨董集めが趣味らしい家の主人によって、贋作として風合いをつけるために池に沈められている。
池の底で汚泥がまとわりつくことの皮膚感覚が語られる。
池の金魚と交歓し、欲情し、子供が生まれる。
人間に姿を変えて、現実世界に現れ、家の主に意見をしたりもする。
生い立ちが語られ、モンゴルの遊牧民の生活が描かれる。
家の主は主で、弥勒の世を忍ぶ仮の姿である。
登場人物?たちの独白で話は進み、やがてカオスのような大団円に至る。


「空気頭」は、作者の「私小説」についての考えで始まる。
「私」の「妻」の結核との闘病生活、「私」の自己に対する洞察がつづられる。
そこでは、「私」はどこか冷たいところがある人間だというエピソードがいくつか示される。
唐突に時制が変わり、終戦後の頃の話に移る。
そこでは性欲へのこだわり、気胸手術に想を得た「気頭術」、人糞を用いた強精剤といった話が続くが、感情を廃し、より客観的に記述すればするほど、現実から浮遊していくようだ。
再度、闘病生活の話に戻り、テレビで見かけたベトナム戦争の映像に、自分に似た冷たい目をした兵士の姿を見る。


「田紳有楽」は、一人称で語ることのヴァリエーションの試みであり、「空気頭」は「私」についての要素を分解し、再構成する試みであろう。
どちらの小説も「私」について追求し、追求した果てに、限界を超えてしまっているようだ。
かつて、J・G・バラードは、内世界にSFの無限の可能性がある、と宣言したが、全く異なる場所から藤枝静男は「私」の無限の可能性を見ているのではないだろうか。
だが、小説の主人公である「私」と、作者自身は必ずしも同一ではないだろう。
藤枝静男の描いている「私」とは、作者の体験を与えると物語を紡ぎ出してくれる、ある種の装置または関数のようなもの、なのかもしれない。


田紳有楽・空気頭 (講談社文芸文庫)

田紳有楽・空気頭 (講談社文芸文庫)