雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

この人を見よ/フリードリッヒ・ニーチェ

最近何だか世間で、ぶれるだのぶれないだの、聞く機会が多くなったような気がする。
その違いにどれほどの価値があるのかは知らないが、ぶれないことの方がより好ましいように話されているようだ。
もっとも生死を分ける問題ではなく、単なるキャッチコピー程度に政治家のコメントで使われているぐらいだから、きっと来年には廃れているんだろう。
改めてニーチェを読み返しているうちに、ニーチェほど、ぶれていない思想家はいないのではないか、とふと思った。
この本において、ニーチェは自らを語り、自らの著作を解説している。
その意図については、やや強迫観念にも似た筆致で、「私を取り違えてくれるな」と書いている。
自伝と言いながら、文章は大きな振幅をしながら、キリスト教的価値観や19世紀ドイツ、ワーグナー、健康法といった話題が語られる。
めまぐるしく変わる話題の論理を、一つ一つ丹念に追いかけるのは、まるでフィールド・アスレチック・コースを急いで巡るかのようだ。
だが、その主張は一貫している。
ニーチェを取り違えること、それは、例えば「19世紀ドイツの哲学者」「キリスト教をベースとした従来の価値観を否定し超人思想を打ち立てた」といった風にニーチェを語り、それで理解したつもりになることだろう。
それらを丹念に否定してゆく過程、それがこの本なのだと思う。
だからニーチェにとってのワタシというものは、この本の意図としては
 [[主張する主体]を解説する主体]
であるのだが、取り違えの恐れ、一切の価値の破壊者としての主張から
 [[[[主張する主体]を解説する主体]として神格化される客体]を否定する主体]
という構造を為しているようだ。
この複雑さを抱えたワタシという存在は、ぶれる余地がまったく無いが、現実と上手く折り合えるとは思えない。
44歳でこの本を執筆した後、ニーチェは精神錯乱の闇に取り込まれてしまう。
序言の最後にある謎めいたこの言葉がとても示唆的だ。

いまわたしは君たちに命令する。わたしを捨て、君たち自身を見いだすことを。そして、君たちのすべてがわたしを否定することができたとき、わたしは君たちのもとに帰ってこよう……


この人を見よ (岩波文庫)

この人を見よ (岩波文庫)