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雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

Ambarvalia/旅人かへらず/西脇順三郎

この本に納められている二つの詩集「ambarvalia」は1933年(昭和8年)、「旅人かへらず」は1947年(昭和22年)に刊行されている。
一見すると、この二つの詩集は、大きく趣きを異にしているように見える。
「ambarvalia」は、古代ギリシア・ローマを題材に、文語調の文体で、硬質な抒情を作り上げている。
「旅人かへらず」は、凡そ多摩地方を題材に、より口語に近い、「侘び」とか「寂び」とかいった抒情を示そうとしているようだ。
この二つの詩集が作られた時間の隔たりには、第二次世界大戦があり、大正以降に隆興したモダニズムの衰退と、思想統制による日本的なるものへの回帰が、西脇順三郎という詩人に影響を与えた結果が、この趣きの異なる二つの詩集に現れている、と考えてしまうのは些か結論を急ぎ過ぎているようだし、何よりも、判ったような気になっているだけに思えてしまう。
さて、本を読む時はどうしても先頭から読んでしまい、この本の場合、「ambarvalia」から「旅人かへらず」へと読み継いでしまう。
だが、読み通した時に、この本は「旅人かへらず」から「ambarvalia」へと読み継ぐべきではないかと思った。
「旅人かへらず」のはしがきは、

自分を分解してみると、自分の中には、理知の世界、情念の世界、感覚の世界、肉体の世界がある。

で始まる。
以下、この長編詩は多摩、川崎辺りの散策とそこでの情景、エピソード、心情の吐露、といった内容が重ねられてゆく。
なぜ散策するのか、なぜそこに「永劫」を見出すのか、なぜそれが「悲しき」なのか、そういったことは何一つ説明などされない。
ここにあるのは、散策という肉体を通して感じる世界と、そこでクローズアップされる事物、そしてそれを眺める詩人の感覚の世界が、つなげられている。
そこから見えてくるのは、散策の中でそれまで日常だと思っていた景色が、別の世界であるかのように感じる感覚、あるいはシュルレアリスム的な物の見方が根底にあるように思う。
ここから「ambarvalia」へ遡ってみた場合、題材にされている古代ギリシア・ローマ的な描写は、ひとつの世界の構築であるようだ。
それは、知識から仮想の世界を作り上げ、そこに抒情を作り上げようとする、いわば理知の世界と情念の世界を人工的に作り上げ、世界を詩の中に再構築しようとする試みが、この詩集なのではないだろうか。
この本に納められた西脇順三郎の二つの詩集は、片方は現実を旅してそこに裂け目を見ようとする眼の記録であり、もう片方は想像界を旅したかのようにシミュレーションする眼の記録なのだと言えるのではないだろうか。

Ambarvalia/旅人かへらず (講談社文芸文庫)

Ambarvalia/旅人かへらず (講談社文芸文庫)