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雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

ぼくの伯父さんの東京案内/沼田元氣

東京

沼田元氣を知ったのは、中学生の頃に読んでいた「ビックリハウス」だった。
盆栽の着ぐるみで、擬古調な文章と盆栽アートを繰り広げていた気がする。
その後、世間はバブルに浮かれて、沼田元氣は見かけなくなった。
そして、挟まっていたレシートを見ると、2001年にこの本を見つけて買ったようだ。
いつの間にか、盆栽の着ぐるみではなくなっていた。
最初読んだときは、懐古趣味と街歩きがテーマの本かと思った。
当時の自分も、東京のあちこちを歩いては写真を撮っていたので、何か思うところがあったのかもしれない。
この本に何度か出てくる神田神保町が、自分にとっても馴染み深い街だったからかもしれない。
本の上段を全て占めている、Olympus PEN-Fで撮影したらしい写真も、ノスタルジックな雰囲気を盛り上げる。
だが、改めて読んでみると、懐古趣味と街歩きはある種の偽装だったように思った。
例えば、書き出しはこうだ。
「二十一世紀、ぜんぜん未来に気持ちが向かない大人のための童話」
だが、結びはこうだ。
「心貧しく生きて
 やがてこの世からグッドバイする
 東京のぼくの伯父さんに幸あれ」
様々紹介される、『伯父さん』の行動は、ひねた眼で世間を見る懐古趣味かと思っていたのだが、どうやらそうではないようだ。
この『伯父さん』は沼田元氣自身であり、それらの行動は、パフォーマンス或いは、作品作りの過程のようだ。
この本自体が作品である以上に、そこに示された行動も作品なのだろう。
上手く説明できていないが、例えばこんな言葉で表されている。
「深く深く知っていくということはいつの間にか自分がそのものになってゆくものだと思わずにいられない」
「遠くに行きたいと思っても結局どこにも行けない」
「皆がそれにお金を払いたいと思う芸術作品、それが本来価値があるものと云えるのだ」
そうして、『伯父さん』という存在と東京という街を重ね合わせていく。
『伯父さん』が偏愛するものは東京にあり、偏愛が深くなればなるほど、『伯父さん』と東京は同一になってゆく。
あたかも悠々自適に、趣味的に生きる『伯父さん』は、豊かな人生を送っているかのように見えるがそうではない。
空想旅行に遊び、東京から離れられない『伯父さん』という作品の価値は、『伯父さん』を認める周りの評価にこそある。
だから、そんな『伯父さん』は心貧しき存在なのだろう。
そこにはしっかりと毒が盛られていたようだ。

ぼくの伯父さんの東京案内

ぼくの伯父さんの東京案内