雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

眠れる美女/川端康成

初めて読んだ川端康成の作品がこの本だったのを覚えている。
「雪国」でも「伊豆の踊り子」でもなく、どうやってこの本に辿り着いたのかは、もう覚えていない。


表題作「眠れる美女」は、とある宿に、主人公である江口老人が訪ねるところから物語が始まる。
そこでは、決して眠りから覚めない全裸の少女と添い寝が出来る。
ただそれだけを愉しむための場所である。
起きないからといって、性的関係を強要したり、殺人を犯してしまうことは、禁忌である。
最初はそのいかがわしさに、江口老人は高揚すら覚えている。
起こそうとしても起きない少女との添い寝を重ね、主人公の独白や回想が繰り返されてゆく。
やがて、とある別の老人の死、添い寝していた少女の死が不意に割り込んでくる。
この場所にあるのは、性と生命の終着点のようだ。
江口老人は多様な女性遍歴を重ね、未だに男性としての機能には自信がある。
その気になれば、少女の純潔を(少女たちが処女であることも、江口老人は確かめている)奪う事だって可能だ、と考えている。
しかし、それは実行されない。
案内役の女性から、「安心できるお客さま」という遠まわしな言い方で止められているのだが、それ以上に、“やろうと思えば出来るのだが私はしない”という自負のようなもので、自ら禁止しているようだ。
その禁忌を破ろうと、主人公の心が行きつ戻りつ、揺れ動き続けるのだが、女性遍歴を重ねてきたが故に、反応もない少女を相手にすることそのものが、主人公にとって価値のない行為なのだ。
そうして、主人公の性は封じ込められている。
主人公は添い寝を重ねるうちに、死を意識する。
決して起きない少女たちは、死のすぐ傍にいるようなものだ。
主人公にとっての最初の女性は母親であり、最期の女性は眠れる美女たちでありたい、という考えすら懐いてしまう。
決して起きない少女たちは死体のシミュレーションであり、主人公の添い寝は死に向けたリハーサルであるかのようだ。
不意に割り込んでくる実際の死(とある老人、添い寝していた少女)は、そのことの裏づけであり、その時が近づいた徴ではないだろうか。
いくら主人公の華やかな女性遍歴の回想、少女の裸体の細やかな描写などが重ねられようとも、冷え冷えとした死の雰囲気が漂っている。


次に収められているのは「片腕」である。
主人公の恋人から右腕を、一晩貸してもらうところから物語が始まる。
奇妙なシチュエーションであり、そこに込められている意味も俄かには計りがたい。
つれて帰った片腕と、主人公は会話をするのだが、それは主人公の独白だろう。
やがて自分の右腕と交換することになるのだが、最期に悲劇が訪れる。
腕を交換することで訪れてしまう悲劇は、主人公と恋人との関係を暗示しているかのようだ。
だとしたら、恋人はなぜ右腕を貸したのだろうか。
主人公が悲劇を望んだのではなく、恋人が悲劇を望んでいたのであろうか。
恋人の右腕との会話の中で、「自分は遠くにあるのよ」と右腕は言うが、主人公は上手く答えられない。
だから、やがて起きる悲劇は、既にそこから暗示されていたのかもしれない。
それは、主人公と恋人との決して縮めることの出来ない距離のことであり、そのことを知らせるために、右腕を貸したのかもしれない、というのは、的外れだろうか。


最後は、「散りぬるを」である。
悪戯心から姉妹を殺害してしまった男の心理を、主人公である小説家が想像する。
実際に起きた事件を題材にしているのかどうか判らない。
主人公は調書と公判記録から事件の様子を想像する。
だがこの物語は、「物語のための物語」という気がしている。
物語を作るのは加害者である男の告白だけでもなく、取り調べる警察、裁判を行う裁判官、そしてそれらの記録から事件を想像している小説家自身も加担している。
そして、絶えず物語を作り出す小説家という生き方の業の深さを、さらに深めようとしているようだ。





眠れる美女 (新潮文庫)

眠れる美女 (新潮文庫)