雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

夢の死体/笙野頼子

引き続き、笙野頼子を読み続けてみる。
この本に収録された「海獣」「冬眠」「夢の死体」といった作品は、Yという女性が主人公である。
どうやら別の土地から、京都にやって来て住んでいる。
特に定職も無いようだが、時折、東京にも行く。
それとなく、文筆業であることが、仄めかされる。
この主人公は作者なのだと、単純に重ね合わせて、解ったふりをしてしまうのは止めておこう。
これらの作品でYは妄想に耽り、酒に溺れ、夢に耽溺し、社会や世間というものからはちょっと引いた場所に立っている。
さらに「虚空人魚」や「呼ぶ植物」では、それらの妄想が走り出してしまう。
前半の3作品は、妄想する私の私小説であるようだ。
私小説全般を論じれるほどに知らないが、私という存在を絶えず考えずにはいられない小説は、私小説と読んでもいいだろう。
そして、前半3作品はそういった類の小説なのだと思う。
私という存在を考えるといってしまうと、自己愛的な自己讃美や、その裏返しである自己憐憫を想像してしまうかもしれないが、そうではない。
むしろ、『私』であることの病と、その闘病記のようなものだと思った。
だから「夢の死体」では、「今まで見た海の夢が全部死んでいることに気付いた」、「夢に飽きた自分、を探り当てたのである」と書いたことで、それまでの妄想する私は清算されたかのように見える。
だが、後半2作品は私が消え、妄想だけが残っている。
「虚空人魚」は「七十五年に一度、彗星の尾に乗って、光る細胞が来る。」という書き出しで始まる。
淡々と、その光る細胞の成長から衰退、その特徴や地球に振りまかれる話などが続く。
そして、最後まで主人公はいない。
「呼ぶ植物」は、植物が読める、という話である。
読めるとはどういうことか、それを説明する中で、言葉そのものの話になっていくのだが、それはこの世界とは別の論理を表す言葉なのだ。
その言葉は存在をも脅かす、危険なものらしい。
もはや、私と言う存在が妄想するのではなく、妄想の中に私という存在が登場する、といった世界観がそこにはあるようだ。
この本は、私が消失してしまった私小説、そう言ってみたくなる。


夢の死体 (笙野頼子・初期作品集)

夢の死体 (笙野頼子・初期作品集)