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雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

病院で死ぬということ/山崎章郎

十代後半のある日、自分にとって重要なことは「死」であると思った。
そう思ってしまった以上、この先、死はついてまわるような気がした。
だが、それを十分に考えるための言葉を持っていなかったので、それが何なのか、上手く理解も説明もできなかった。
死とは何であるのか。
様々な本を手に取る動機の一つとして、それがどこかにあったのかもしれないという事は、今にして思えば肯定できる。
死そのものを体験した時には、既に自分はいない。
自分の死を理解するという事は、予感の中にしか存在しない。
他人の死を理解することはできるのだろうか。
例えば埴谷雄高の「死霊」の何章だったか、死に逝く人の脳にゾンデを刺し、その意識の消え去る瞬間を探るという話があったと記憶している。
そこまで客観視しなくとも、マルセル・デュシャンの墓碑銘にあるように
「死ぬのはいつも他人」
なのだ。
少なくとも自分が生きている間は。


この本の著者である山崎章郎氏は、医師として末期ガンの患者と向き合い、その死を看取るうちに、人は生の最期まで自身の尊厳を保つ必要がある、という信念を持つに至った。
前半は病院や医師本位の悲惨な例を伝聞したものをまとめた話、その後、山崎氏がホスピスの必要性を考えるきっかけが述べられ、後半はガン告知を受け、死と向き合って穏やかに亡くなっていった方々の話がまとめられている。
山崎氏は医師として症例を挙げているのではなく、そこに人としての交流を見出している。


さて、自分がガン告知を受けたとしたら、余命幾日と告げられたとしたら、どのように思うのだろうか。
この本の後半に登場する方々のように、やがて確実に来る自分の死という現実を受け入れられるのだろうか。
しかし、今ここでこうやっている事だって、死に向かって着実に歩いていることに他ならない。
十代の後半に気づいたことの答えは、まだ見つかりそうにはないが、その気づきは正しかったようだ。
だがまだ考え続けなければいけない。


病院で死ぬということ (文春文庫)

病院で死ぬということ (文春文庫)


この本を読んで思い出したのは、岩井寛『生と死の境界線 「最後の自由」を生きる』である。
医師でもあり、末期ガン患者でもある岩井氏が、生の最後の瞬間までを、人としての尊厳を以って記録しようとした稀有な本であった。