雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

怪僧ラスプーチン/マッシモ・グリッランディ

ラスプーチンの名を知ったのは、いったいどこだったろうか。
ロマノフ朝ロシアの末期のシベリアに現れた、鞭身派キリスト教の修行僧であり、怪しげな教えと催眠術を操り信者を増やしてゆく。
ニコライ2世夫妻の息子、アリョーシャ(アレクセイ)を治癒したことから信頼を得て、帝政末期の混乱の中で政治の中枢にまで近づく。
だが、渦巻く陰謀に捉えられ、食事に青酸カリを盛られ、数発の銃弾を受けながらも逃げ、顔の形が変わるほどに暴行された挙句に、冬のサンクトペテルブルグの川に放り込まれて溺死する。
この本は、そんなラスプーチンの生涯を丹念に事実を拾い上げ、想像力の線で繋いで行った力作だと思った。
異常性欲者であったとか、巨根の持ち主であったとか、どこまでが事実だったのか判らない怪しげな噂が、濃い霧のように立ち込めている中から、ラスプーチンという人となりを描き出そうとしている。
だが中立というよりは、ややラスプーチン寄りな気がする。
第一次世界大戦時の帝政ロシアの権力の中枢に居ながら、絶対的平和主義者であり、農本主義的な社会主義革命を夢見ていた、という辺りはちょっと美化しすぎではないかと思った。
それにしても、積極的に罪を為すことで救済を得る、という鞭身派の教えを操って、信者を増やしていくこと、そこに引っ掛かりがある。
この鞭身派の教えは、アモラルな領域、むしろインモラルな領域こそが、至高性へ至る道であるということだろう。
ラスプーチンの登場したロマノフ朝末期という社会全体の混乱の中で、明確に至高に至る道が示されたのだから、それが性的放縦を意味していようがいまいが、人はそこに縋ってしまうものなのだろうか。
そして信者となった人々は、信仰による至福を得ることができたのだろうか。
性的放縦の向こう側に絶対的なるものを見出すという考えは、バタイユ的であるような気もするが、そこに生の全体性を見出すということではないようだ。
ラスプーチンは一体、何を手に入れたのか、あるいは、何が手に入らなかったのだろうか。
宗教的権威を手に入れたかったのだとしたら、政治の世界に手を染めたのは、寄り道だったのだろうか。
あるいは、修行僧でありながら絶対的存在など見出す気もなく、ただ己の欲望を無制限に開放させた、反宗教的人物だったのだろうか。
ただ、混乱する世界の中を泳ぎながら、泳ぎきることができなかったラスプーチンという存在は、やはり考えてみる必要があるようだ。


怪僧ラスプーチン (中公文庫 BIBLIO 人物)

怪僧ラスプーチン (中公文庫 BIBLIO 人物)


(これは、「ラスプーチンに学べ」と書き記した高校生の自分に対するリファレンスである。もちろんこの文章だけでは終わらないだろう。まだ考えるべき深さに至っていないような気がする。)