雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

知の旅への誘い/中村雄二郎・山口昌男

ある試みが成功であったかどうかは、何を以て判断するのだろうか、と考えたときに、例えば読み手に何をか残せたかどうかというのはあるだろう。
ただ、その読み手が本の著者が想定しているイメージと重なり合うとは限らない。
読み手それぞれによって評価が異なるのだから、成功かどうかは、ある種、多数決的に判断することになるのかもしれない。
しかし、それは試みの成功とは関係が無いとも言える。
発せられたメッセージが到着した時に残す痕跡はメッセージに属するのではなく、到着した所に属している。
それは、メッセージ自体との関連で考えれば、そのメッセージが発せられなかったとしても、別の事象で痕跡は残ったかもしれないのだ。
だから、ある試みが成功したかどうかは、その本を書いた著者が、どれだけ着想からのイメージをメッセージにまで籠めることができたのかということもあるかもしれない。
この本は1981年に出版されたようだ。
中村雄二郎は哲学者であり、山口昌男文化人類学者である。
いまさら、二人の経歴等については、ここで触れる必要は無いだろう。
この本は、その二人が、旅を知の探求のメタファーとして、あるいは、知の探求を旅のメタファーとして、作り上げた一冊の本である、とでも言えようか。
そして披瀝される、演劇的知、中心=周縁理論、共通感覚論、そういった辺りがキーワードだろう。
恐らく、この本は著者達にとって、成功した一冊なのだろうと思った。
だが、読み手である私にとって、致命的だったのは、つまらなかったのだ。
主張したいことも判るし、野心的な手法の試みも判るのだが、それぞれの著者が書いた本を繋げただけの様に見えてしまう。
ここで引き合いに出すのが適切かどうか判らないが、ドゥルーズ=ガタリのように二人で一つの本を書き上げた、というのとはほど遠い。
かと言って対談のように、スリリングなやり取りが展開される訳でもない。
なぜこの二人がこの本をこのような形で残したのか。
それは、これが著者たちにとっての成功の形だと思ったからだろう、というのが答えなのではないだろうか。


知の旅への誘い (岩波新書)

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