雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

二十歳の原点/高野悦子

読んだことない本を読んでみよう。
二十歳か、もう随分前だよな、と思い、図書館で手にとってみた。
別に、二十歳の人間が読まなければいけない、ということではない。
だが、不惑を越えた男が読むものだろうか?
では、不惑を越えた男が読むべきもの、って何だ?
やっぱり時代小説や、企業小説、本格ミステリーといったところだろうか。
意識的に避けているわけでもなく、馬鹿にしているわけでもないが、いままでも読んでないジャンルだし、これからも読まない様な気がする。
逆に、歳をとっても、詩だのSFだの人文系だの、読み漁っているほうが薄気味悪いだろうか。
しかし、西脇順三郎の詩にあるように、詩歌は『髭のない少年のためではなく、放蕩の故老のこはくなつた筋肉に好色の刺戟を与へるもの』なのだから構わないか。
放蕩をした覚えもないけれど。
さて、高野悦子氏は立命館大学の学生で、1960年代末期の学生運動に関わり、二十歳にて鉄道への飛び込みにて自殺した。
この本は、その死に至る数ヶ月の日記である。
そもそもこの本は作品として書かれたものでもないし、死者のことを誰何するのは聊か気が引けるが、いまさらそれはどうだと言うこともないか。
誰の言葉だったか、本には賞味期限があるというのを思い出す。
残念ながら、この本は私にとっては、賞味期限が切れてしまったようだ。
それでもこうして駄文を連ねているのは、やはり何かあるからなのかもしれない。
口癖のように繰り返される、世界や、自由や、闘争という言葉に違和感を覚え、革命への硬直した思考は、時代の隔絶を思ってしまう。
既に彼女の2倍も生きてしまった私には、むしろ、煙草をふかし、正体がなくなるまで酒を呑み、ジャズ喫茶や居酒屋に出入りする、二十歳の女性としての姿に、懐かしさのようなものを覚えてしまう。
では、二十歳の頃の自分が読んだらどう思ったのだろうかとも思うが、実際のところ二十歳の頃に出会わなかったのだから、読むべき本ではなかったのだ。


二十歳の原点 (新潮文庫)

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