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雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

デルスー・ウザーラ/ウラジーミル・アルセーニエフ

デルスー・ウザーラの名前を知ったのは、黒澤明フィルモグラフィーだ。
だが、映像作家としての黒澤明は凄いなと思うが、映画監督としてヒューマニズムをテーマに持ってくるので、食指を動かす気は起きなかった。
次に東洋文庫にその名前を見つけたのだけれど、東洋文庫は何となくハードルが高い。
いや、単に値段が高い?
その上、ロシア文学全般に、興味が向かなかったのだ。
だから、未だにドストエフスキーは読んでいない。
例外は、ナボコフぐらいだろうか?
しかし、何となく図書館で借りてみることにした。
するとどうだろう。
久しぶりに、読み耽ってしまい、終わるのがもったいない本だった。
アルセーニエフ自身が、沿海州の探検行の記録であり、そこで出会ったゴリド人の猟師のデルスー・ウザーラとの交流が描かれる。
二人の交流は、言葉など易々と乗り越え、互いに助け合い、協力して敵に向かい、時に教えあう。
シベリアの原始林の中に生きるデルスーの世界観は、アニミズム的であり、鳥や獣や風や雨、そして精霊と話をする。
自ら五感で、どんな細かなことでも気付き、対処する。
探検行の困難さを乗り越えていくその姿は感動的だ。
一歩引いて考える。
ロシア人アルセーニエフとゴリド人デルスーによる探検行とは、つまり冒険譚における完璧なフレームワークだろう。
子供の頃、何度も読み耽ったジュール・ベルヌの「海底二万海里」も、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」だって、ちょっと不釣合いな二人が冒険する。
まだ未読だが、セルバンテスの「ドン・キホーテ」もそうなのだろうか?
同質の二人ではなく、異質な二人が、現実の困難さに協力して立ち向かう、という完璧な枠組が、この本を読み耽らせたのだろうか。
さらに一歩引いて考える。
この登場するのは、ロシア人と中国人と朝鮮人とシベリアの大地にはるか昔から住んでいた少数民族達である。
ロシア人が探検を行うこと、それ自体が近代化によって、今まであったものが壊されていく過程でもある。
木を切り、動物達を撃って、進んでゆく姿は、量的な差があっても、破壊と殺戮に過ぎない。
だが端的に、ロシア人による近代化の波がシベリアにも来ましたよ、という単純な図式でもなく、中国人による少数民族の搾取、ロシア人と中国人との覇権争い、その隙に入り込もうとしている朝鮮人や日本人、さらにはロシア人内の腐敗も垣間見える。
単なる近代化という名の植民地主義と看做し、失われ行く少数民族に肩入れする思考も、いささか単純すぎる。
失われ行く少数民族達もまた、シベリアという同じフィールドのプレイヤーであり、ロシア人や中国人もまたプレイヤーに過ぎない。
少数民族達によるシベリアの自然からの恵みの受け取りと、その上前を効率よく受け取るために奴隷化する中国人、さらにその利権を領土を盾に奪い取ろうとするロシア人という構図なのではないだろうか。
そこまで、ひねて考える必要も無く、読み終えるのが惜しいぐらいに面白い。
見たことも無い、シベリアの大地に憧れてみたくなる。


デルスー・ウザーラ〈上〉 (河出文庫)

デルスー・ウザーラ〈上〉 (河出文庫)

デルスー・ウザーラ〈下〉 (河出文庫)

デルスー・ウザーラ〈下〉 (河出文庫)

借りたのは、河出文庫版。約300頁の2分冊である。
デルスウ・ウザーラ―沿海州探検行 (東洋文庫 (55))

デルスウ・ウザーラ―沿海州探検行 (東洋文庫 (55))

本棚に置くなら、やはり、東洋文庫版のほうが欲しいか