雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

妖怪談義/柳田國男

かつてこの本は、水木しげる氏の「妖怪なんでも入門」に次ぐ、妖怪本の古典だったのだけれど、読み通していなかったようだ。
(その頃は、小松和彦氏の著作も、井上円了の名前も知らなかったのだった。)
改めて再読してみる。
柳田國男氏のこの本は、代表作といわれることの多い「遠野物語」とは、だいぶ趣が異なっていると思った。
遠野物語」が遠野という場所にこだわり、深く掘ったのであろうけれど、この本に於いて「妖怪」そのものを深く掘っていくという感じはしない。
むしろ、「談義」の方にアクセントがあるのかもしれない。
例えば、秋田のナマハゲは、正しくはナマハギであり、少し前まではナモミハギであったと辿っていき、ナモミとは囲炉裏の火にあたり過ぎて赤くなった火斑のこと、つまり仕事もせずにダラダラ過ごしている若者を追い立てる風習であったことを説明する。
妖怪の名前からその語源、起源を辿っていったり、よく似た妖怪のヴァリエーションの分布から変遷を推測したり、妖怪の存在というよりはそのひとつ上のメタレベルの、妖怪を生み出し伝播してゆく心象や社会の在り様を探ろうとしている。
ついこの前に読んだ、宮本常一氏の民俗学との対比で考えてみる。
宮本氏は日本の奥地や失われつつある古層の村落の在り様を収集する。
そこに見いだされる社会とは、今とは異なる姿をしているが、かつてそこにあった共同体の姿である。
そこに暮らす人々を、共同体内での役割や意味として、暗黙的な現在との対比において理解しようとしているように思えた。
つまり、内部を拡大していく理解であり、異なるところはあるけれど、暗黙的な現在と日常をそこに投影している、と思うのだ。
これに対して、柳田國男氏にとっての妖怪とは、人々が名づけたものであり、正体は何だか判らないがこういうものだと思った存在のことだ。
つまりそれは、人々の外部にあって内部とは相容れないもの、あるいは内部を脅かしたり、避けるべきものとして立ち現れる。
妖怪は限られた場所にいて誰彼構わず出るのに対し、幽霊は因縁に基づいた関係者のもとを訪れる存在だと分析する。
様々な短い論考が集められているのだけれど、興味深いのは、沈黙交易、天狗、山人という異民族、という話題にまで及ぶ。
つまり、自分たちにとっての外部をどのように理解(あるいは、理解しないように)してきたのかを考えている。
共同体の外部の異質な集団に対して、妖怪というイメージを投影することで、自分の属する集団の態度を規定している。
それは忌避されるべきものだったり、祭り上げられるものだったり、そのバリエーションや変遷を辿ろうとしたのが、柳田國男氏にとっての妖怪の探求であったのだろう。
最後の「妖怪名彙」には各地の妖怪が集められている。
単なる妖怪好きだったのかもしれない。


妖怪談義 (講談社学術文庫)

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持っているのは、講談社学術文庫
新訂 妖怪談義 (角川ソフィア文庫)

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角川ソフィア文庫でも出たようだ