雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日/カール・マルクス

いまさらマルクスだと?フランス革命だと?お前はどこぞの左翼気取りの学生か、と、アナクロニズムの甚だしいのにも程があるぞ、と、いまどき赤旗の勧誘員だってこんな本は手に取らないんじゃないか、と。
とは言え、以前から何か惹かれるものがあるので買ってしまった。
そして一気に読んでしまった。
冒頭は有名な一節である。

ヘーゲルはどこかでのべている、すべての世界史的な大事件や大人物はいわば二度あらわれるものだ、と。一度目は悲劇として、二度目は茶番として、と、かれは、つけくわえるのをわすれたのだ。

だから、この本はマルクスによるスラップスティックだと言えよう。
ナポレオン・ボナパルトの茶番としてのルイ・ボナパルトによる、皇帝就任に至るいきさつが、皮肉たっぷりに繰り出される。
フランスの第二共和制が自壊して行く姿もまた茶番である。
もしかして、マルクスは直線成長的な歴史モデルなんて信じていないのかもしれない。
もうひとつの読み方として、これは権力闘争のテクニックを解説した本だと思った。
つまり、もし敵対勢力を潰したいのであれば、敵対勢力に反対する勢力と手を組むべきだ、そして、反対勢力が敵対勢力を潰したやり方で、自分が反対勢力を潰せば良いのだ、ということをルイ・ボナパルトに事寄せて解説している、というわけだ。
もちろんこれは、意図した誤読なのだけれど、誤読する以外に、いまさらながらにマルクスを読む手立てがあるのだろうかとも思っている。
真面目にプロレタリアートブルジョアの権力闘争を読み取ろうにも、そこに階級なんてものは見いだせない。
諸権力による足の引っ張り合いの権力闘争でしかない。
もし、それを労働者と資本家の階級闘争だと言うなら、確信犯的に空間的差異を時間的差異に変換して家族と私有財産の起源を説明するエンゲルスのやり口だろう。
ここは素直に、19世紀フランスを舞台にしたスラップスティックとして読むのが良いと思った。

ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日 (岩波文庫 白 124-7)

ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日 (岩波文庫 白 124-7)

久しぶりに岩波文庫で重版されたようだ
ルイ・ボナパルトのブリュメール18日―初版 (平凡社ライブラリー)

ルイ・ボナパルトのブリュメール18日―初版 (平凡社ライブラリー)

平凡社ライブラリーでも出ている