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雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

羅生門・鼻/芥川龍之介

これは、子供に読ませてはいけない本なのではないだろうか、とさえ思える。
確かな記憶では高校生の現国、もしかしたら中学生の頃、教科書を通じて、初めて芥川龍之介に触れたと思う。
この「羅生門・鼻」は、所謂、王朝ものの短編を集めている。
国語の教科書に載るくらいなのだから、内容について今更あれこれ書かなくても良いだろう。
改めて読んでみると、むしろ、そのスタイルに唸らされる。
端的に言うと、ひとつひとつの文が、というよりもっと、ひとつひとつの言葉が、凝縮されている。
言葉に無駄が無く、それ以外の言葉ではあり得ない、と思わせるような言葉の選び方だと思った。
そして、それらの言葉が織り成す文は、それ以外の表し方が無いと思わせるような文だ。
それはつまり、言葉と文との繋がり度合いが、非常に高いということだろう。
冗長な表現は無く、かつイメージを刺激するような表現が連なる。
羅生門」の冒頭は、雨の降りそぼる夕暮れから、一人の男にクローズアップし、背景の朱塗りの門に視線を移し、そこに留まっている蟋蟀へと視点が移っていく。
まるで、長回しのワンショットの映画の冒頭のように描写が連なって、その小説世界へと連れて行かれる。
短編小説として、そのスタイルは完璧だと思った。
薄暗い夕暮れの都の外れの羅生門で、盗人と老婆と死体になってしまった女で繰り広げられる物語は、冗長さも無く隙がない。
そこに描かれるのは、乱世に暮らす人の姿であり、それは現代(芥川が生きた大正・昭和であり、いまこの平成でもある)とも紙一重であることを、ありありと示しているように思うのだ。
そして「鼻」や「芋粥」では欲望の表裏を、皮肉めいた視線で描いている。
コンプレックスや卑屈さといったものを、裏返しの欲望の実現として設定するのだが、やはり元の場所へと帰っていくというストーリーは底意地が悪いと言っても良いだろう。
さらに「好色」に至ると、スカトロジーまで登場する。
この本には、芥川の皮肉めいた笑いが詰まっているような気がする。


羅生門・鼻 (新潮文庫)

羅生門・鼻 (新潮文庫)


(2010.7.2 改稿)