読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

アルジャーノンに花束を/ダニエル・キイス

この物語へのアプローチを、知性と倫理の相反する哀しみとして読むのが正門だとしたら、裏門はどこにあるのか探してみる。
知恵遅れの主人公チャーリーの報告書の体裁であるから、チャーリーを取り巻く人々の視点から考え直してみるのが有効だろうと当たりをつける。
大学教授らにとってチャーリーは、被験者の一人である。
そこに、チャーリーに対する親しさがどんなに増そうとも、医者:患者という関係性は覆すことは出来ない。
冷たいようだが、チャーリーの理性の発達は実験結果であり、そこには奇跡や偶然が入り込みはしないし、それは教授らにとっての成功でもあるのだが、万が一、成功しなかったとしても、実験の失敗でしかなく、チャーリーの人生とは関係が無い。
パン屋の同僚たちにとってのチャーリーは、うすら馬鹿であり、からかいの対象だ。
そこにある親しさは、からかう者とからかわれる者の関係において成り立っている。
つまり、からかう対象としてのチャーリーが、ある日、お約束のリアクションをしなくなったり、逆に意見したりするようになることは、チャーリーは変わってしまったのであり、からかう者が持つ親しさを壊すものでしかない。
チャーリーの視点では、教授らもパン屋の同僚たちも理性を持った眼で見ると失望でしかないが、彼らから見たチャーリーはどうだろうか。
突然、人が変わったように(事実、手術で変わったのだが)威圧的な態度で接してくるようになった、虫の好かない奴なのではないだろうか。
教授たちの専門分野にずかずかと入り込み指摘をし、議論を吹っかけ、パン屋では頭角を現し、不正を指摘し、まるで自分だけが正しいと思っているようではないか。
知性があらゆる価値の頂点に位置するような考え方にチャーリーは陥り、それが故に周りの人々は離反してゆく。
一方で少年時代の思い出に囚われているチャーリーは、満たされない愛情の代償として更に知性を追求する。
改めて読んでみると、この物語は「かわいそうなチャーリー」に対して、容赦が無い。
本当に求めていたのは家族の愛情だったという一方で、それを手に入れるために知性を獲得し、知性を獲得したが故に人間関係に破綻をきたす。
だが、実験の失敗により知性が崩壊するにつれて、愛情や人間関係を取り戻して行き、やがて元の知恵遅れのチャーリーになって幸せを取り戻す。
この描き方には、悪意が籠められているのではないだろうか。
更には、知恵遅れの息子を持つ父母の姿、養護施設の職員の姿、それらは大学教授らやパン屋の同僚以上に、その善意をせせら笑うような描き方がされているように思った。
そのリアリズムがどうとかいう話ではなく、この物語は歪んで悪意に満ちた世界が映し出されている。
この物語の裏門は、悪意に満ちた世界への呪詛なのだと思う。


アルジャーノンに花束を (ダニエル・キイス文庫)

アルジャーノンに花束を (ダニエル・キイス文庫)