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雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

佃に渡しがあった/尾崎一郎、ジョルダン・サンド、森まゆみ

文系 東京

かつて佃島へは渡しに乗って行ったのだそうだ。
私が生まれる数年前に、その渡しは廃止になったらしい。
佃島という場所は、もともと漁師町であった。
その漁師町としての景色が、尾崎一郎氏の写真によって収められている。
東京のほぼ中心に位置しながら、近代化とは少し距離を置いた漁師町の人々や暮らし、祭りが写されている。
ノスタルジーとは異なるが、東京の中のミクロな町の違いは、あまりなくなってしまったように感じる。
駅やデパートを中心とした商業複合施設や、大型マンションがどこにでも建ち、またそれは東京と郊外という境を越えて広がっている。
それが悪いと言っているのではない。
だが、どこまでも便利で快適で良く似た空間が広がって行くのは、質の悪い冗談か、悪夢にも似た話ではないだろうか。
それはともかく。
この本では、江戸時代からの佃の歴史、そして佃の人々への聞き書き、そして昭和30年代〜40年代のスナップショットが収められている。
ここに写っている老人たちはもう亡くなってしまったろうし、子供たちは今は中年から初老といった年代だろうか。
そこにかつてあったことだけが記録として残ってゆく。
こういった写真を眺めるとは、一体どういうことなのか。
そこに自分の記憶を重ね合わせているのではない。
生まれる前の住んだことも無い土地に、自分がいたことも、いたであろうこともない。
それにもかかわらず、郷愁やノスタルジーを感じているとしたら、それは思い出の偽装であり、記憶の捏造に他ならない。
だが、ノスタルジーという物語だとしたらどうだろうか。
「古き良き昭和」なる物語を味わうための、外部記憶装置としての写真として眺めてはいないだろうか。
つまり、これは記録ではなく、フィクションとして眺めている、ということだろうか。


佃に渡しがあった (ビジュアルブック水辺の生活誌)

佃に渡しがあった (ビジュアルブック水辺の生活誌)