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雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

家族八景/筒井康隆

例えば、この物語の主人公は、ジュスティーヌなのかジュリエットなのか、と考えてみる。
もちろん、マルキ・ド・サドの、「ジュスティーヌ物語あるいは美徳の不幸」「ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え」のことである。
主人公の火田七瀬は他人の心が読めてしまうテレパスである。
その特殊能力が故に、世間から隠れるように、あちこちの家を転々としながら、お手伝いさんとして働いている。
物語の導入としては、ジュスティーヌを思わせる。
見たくも無いものを見せられ、気味悪がられ、傷つけられ、世間からはみ出さざるを得ない、不幸な少女の物語として語られる。
だが連作を重ねるうちに、特殊能力を悪用し、相手に復讐したり、発狂させたり、自殺させたりする。
自ら進んで、相手を陥れようとさえする。
だが、ジュリエットではない。
ジュリエットは自ら進んで悪徳に手を染める、裏返しのジュスティーヌなのだから、ジュスティーヌになりきれない少女は、ジュリエットになれるはずは無い。
モラルを中心線として引き左なのか右なのか、それはジュスティーヌなのかジュリエットなのか、と問いを立てたのだが、実はモラルという中心線が無いのだ。
七瀬の行動はモラルに従っているのではない。
あくまで自分の身を守るための行動であり、それが道徳的に正しいかどうかは問題ではない。
この物語は、アモラルな欲望の政治の話だろう。
七瀬以外の人間が、互いの欲望の成就に向けた駆け引きの場を作る中で、テレパスという特権的立場で、それらの欲望をコントロールしようとする駆け引きの話なのだ。
お手伝いさんという家庭に対する外部性を表す少女を主人公に据えて、ホームドラマの裏側にある欲望をさらけ出し、人間の醜さに打ちひしがれる不幸物語のように見せかけて、テレパスという特権的立場で家庭内に秘められた欲望をコントロールしようとする物語なのだった。


家族八景 (新潮文庫)

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何が違うのかこの二つ
家族八景 (新潮文庫)

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