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雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

ランスの大聖堂/ジョルジュ・バタイユ

バタイユの最初期の文章を集めた本。
ランスの大聖堂に対して、まだキリスト教を棄教していないバタイユの、ファナティックな礼賛は何だろう。
そこには私の理解しきれない何かがあって、それは存在の根本に関わるものであるような気がする。
バタイユの語る闇であれ、エロティシズムであれ、理屈として判ったとしても、その闇から戻ってくるような思考はできないような気がしている。
思考の枠組が、神学的であるからかもしれない。
ただしそれは、不在の神、つまり無神学大全というわけなのだけれど、枠組を内側から食い破るような、詩的な思考だからどうにも始末が悪い。
だが同時に、その違いがあるからこそ、バタイユは忘れた頃にまた読み返してしまう。
つまり、バタイユの思考が嫌いではない、いやむしろ好きだと言ったほうが良いかもしれない。
例えば、この本にはシュルレアリスムに関する論考が収められている。
シュルレアリスム宣言」にもバタイユは登場し、「第二宣言」で除名されているのだけれど、バタイユから見るとシュルレアリスム運動への参加は何だったのかということが判る。
まず、「容認された限界に対する真に雄々しい異議申し立て」という言い方をしている。
つまり、常識的な現実に対する、絶対的な異議申し立て、ということだろう。
詩や絵画について、存在(つまり作者)よりも作品を優位に置いたということ、つまり、オートマティズム、デカルコマニー、コラージュ、フロッタージュ、(そしてデュシャンのレディメイドやアナグラムも射程に入れていいだろう)といった技法は、作者の意識、意図といったものを超える無意識を作品へ代入させた。
そのことは、一方では作品の魅力を拡大させ、他方では存在の闇、葛藤、孤独がさらけ出す、という。
つまり、シュルレアリスムとは存在の深遠に至る異議申し立てだという理解である。
モーリス・ナドーの「シュルレアリスムの資料」への書評として書かれている、もうひとつの論考においては、「言葉の不在」という言い方をしている。
ここでいう不在とは、沈黙のことではない。
沈黙もまたひとつの言葉である。
バタイユの説明では、言語に対立している作家でさえ、「論理的言語(ディスクール)の地平で自己表現することを余儀なくされ」「歯ぎしりをしながら不承不承そうする」のだが、「沈黙すべきだという意識が彼に予言者ふうのたわごとを語らせるようになる」、という。
初期シュルレアリスムにおいては、既成秩序に対する叛乱として様々なパンフレットや公開質問状が出され(しかもその多くは、アントナン・アトルーが関わっている)たが、それが、集められ、反面教師的に見えてしまうことに、バタイユは嫌悪感を表明する。
それらの、戦闘的なパンフレットやテクストは、攻撃対象に対するものではなく、語り得ない根源的な異議申し立てであると、バタイユは解説する。
だが、「シュルレアリスムという事物たちへの否定それ自体が一個の事物となってしまった」という。
これらのバタイユによるシュルレアリスム擁護は、理解しうるもので納得もできる。
しかし、ブルトンを中心としたシュルレアリストたちは、これに呼応することは無かったようだ。


ランスの大聖堂 (みすずライブラリー)

ランスの大聖堂 (みすずライブラリー)

ちくま文庫にも入っているようだ
ランスの大聖堂 (ちくま学芸文庫)

ランスの大聖堂 (ちくま学芸文庫)

シュルレアリスムの資料」の邦訳は思潮社から出ている