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雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

雪国/川端康成

仕事帰りにふらっと図書館に寄って何となく借りてみたうちの一冊。
名作と言われるものを、あまり読んでいないので、夏の100冊フェアでもよくエントリーされているし、世間は夏休みだし、ちょっと読んでみようかと思った。
だが、この作品は本当に名作なのだろうか。
それとも、読み手の私の頭が悪くて理解できていないだけなのだろうか。
冒頭の一文はあまりに有名だ。

 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。

だが、それに続く一節に引き込まれた。

 夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。

物語は温泉宿に向かう列車の中の島村が、乗り合わせた葉子と駅長の会話から始まる。
だが、物語が始まった早々に、島村の窓ガラスに写った片眼に引き込まれ、人差し指の感覚から駒子のことを回想する。
また葉子と連れの男の関係を妄想し(真実は後で明かされる)、葉子に見とれている。
物語の本筋は、葉子ではなく、鄙びた温泉宿の芸者である駒子との関係だ。
とは言え、島村は年に一回泊まりに来るだけであり、駒子を身請けしようというのでもなく、ただ、会いに来ている風情だ。
だから、怒ったり、泣いたり、愚痴をこぼしたり、酔っぱらって乱れたりするのは駒子だけであり、もし、描写そのままに実在したとしたら、相当めんどくさい女だろう。(まあ、これは個人の趣味かもしれないが)
もっとも、駒子の立ち振る舞いを際立たせるために、島村の行動は大幅に省略されているだけかもしれない。
とは言え、数年が過ぎても二人の関係は変わらない。
物語の時間が経過する中で、主人公以外に事件は起きる。
葉子の連れだった男が死に、最後は村の繭倉の火災に葉子が巻き込まれてしまう。
葉子を抱きかかえて半狂乱の駒子に近寄ろうとするが、人ごみに押されて空を見上げた島村は、

 さあと音を立てて天の河が島村のなかへ流れ落ちるようであった。

という感覚に襲われて、物語は終わってしまう。
一体これは何の物語なのか。
最後の一文が、天地が動転してしまうような島村の喪失感の表現なのだとすると、それは、半狂乱である駒子に対するものではなく、焼け出されて生死の境をさまよっている葉子に対するものであろう。
そうすると、物語は葉子との出会いと別れが本流であり、駒子との回想やいざこざは全て迂回路なのではないだろうか。
列車に乗り合わせたときから島村は葉子の片眼に(明らかにこれは「片腕」を意識しているだろう)心奪われていたのだが、温泉宿には駒子がいるのだから葉子を手に入れることは禁忌だ。
もし、島村が駒子の眼を盗んで葉子に手を出すことで、禁忌の侵犯が行われたならば、そこには生き生きとした島村が描かれたであろう。
しかし、ちょっとめんどくさい存在の駒子が、島村の欲望を絶えず抑圧し続ける。
だからと言って、駒子が島村の欲望に身を任せるのでもなく、島村も禁忌の侵犯(妻子の眼を盗んで駒子に会いに来ている時点で禁忌の侵犯なのかもしれないが)を発現させるほどのこともなく、煮え切らない二人の関係は続く。
物語世界で抑圧された欲望は葉子の連れの男の死に変換され、とどめに葉子の死(確定ではないが)への変換を以て物語は終わっているのではないだろうか。
つまり、この物語は抑圧された欲望と、その欲望が死へと変換される物語なのだ。
そして所々に、フェティシズム的なアイテムが散りばめられている。
片眼、人差し指、頬の赤み、動く唇、ロシア女の白い肌。
最高の抒情小説だとか、日本的な美が云々とか解説されているが、川端康成フェティシズムネクロフィリア趣味が漂う、どちらかというと薄気味悪い物語だと思った。


雪国 (新潮文庫 (か-1-1))

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借りたのは新潮文庫
雪国 (角川文庫)

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角川にも入ってる
雪国 (岩波文庫 緑81-3)

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岩波もありますな
[オーディオブックCD] 川端康成 著 「雪国」(CD4枚)

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もし失明したら、こういうのはありがたいだろう