雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

栗本慎一郎の全世界史 経済人類学が導いた生命論としての歴史/栗本慎一郎

気になったので、図書館で借りてみた。
あとがきによれば、この本は最後の著作だという。
内容を乱暴に要約すると、南シベリアを基点とするシュメール人によってもたらされた文明という病に侵された、世界史の概略といったところだろうか。
この場合の文明とは、文字の使用、誇示するための建造物、文化の統合といったあたりがメルクマールのようだ。
そして特に力点が置かれるのは、文化の統合であり、むしろ民族同士の王国と帝国の興亡を以って説明している。
それは古代史から中世史における騎馬民族と農耕定住民、ヨーロッパにおけるキリスト教ミトラ教、日本における蘇我氏とヤマト、といった二項対立をもって歴史のダイナミズムを説明する。
栗本氏はこの本での主張に対して、その実証を省略し、あまつさえ既存の考古学者や歴史学者を批判、揶揄するものだから、ある種のトンデモ本の類とすれすれの内容に見えてしまう。
そのひとつひとつを論って、あたかもトンデモ本を紹介するかのような手つきは、ここではしない。
また、氏の説に寄り添って、経済人類学の徒であるかのように振舞うのもいささか芸が無い。
敢えてこの本の感想として書くとしたら、なぜ年を経ると人は歴史を語りたくなるのだろうか、ということだ。
それを否定するつもりも無いのだけれど、歴史を語ること自体が、栗本氏の主張する文明という病の最たる側面のような気がする。
文字を持ち、歴史を語り、自らの正当性を声高に語る身振りは、洋の東西を問わない現在の文明の姿ではないか。
だからといって、文字を持たなかった遊牧民やアフリカ諸民族に対して、ユートピア的幻想を持つのも、これまたお門違いだろう。
歴史を語りたくなってしまうこと自体が、人が老成し、文明が成熟したメルクマールなのかもしれない。
しかし、その史観を掲げて自分以外を攻撃することは、笠井潔氏が批判する、観念に取り憑かれた状態に他ならないだろう。
栗本氏はこの本を「意味と生命」の続編であり、歴史こそが生命論なのだという。
読者という聊か特権的な立場から、所々苦笑を交えながら、この本は興味深く読めた。


栗本慎一郎の全世界史 ~経済人類学が導いた生命論としての歴史~

栗本慎一郎の全世界史 ~経済人類学が導いた生命論としての歴史~


今年はこの記事が最後となるであろう。
読んでいただいた方々に深く感謝します。
どうもありがとうございます。
わざわざ一年を振り返りはしないが、毎月10冊程度は読んでいたようだ。
ページビューの統計なんて取っていないが、スパムがあまり無いことから、相変わらずネットの辺境に座っているような気がする。
来年どうするかは何も考えは無いので、引き続きよろしくとは言いません。