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雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

異郷の昭和文学/川村湊

文系

この本もまた、図書館で借りた。
川村湊氏は、以前に「満洲鉄道まぼろし旅行」を読んだぐらいなのだが、この本もまた満洲がテーマである。
言うまでもないが、満州国に対するノスタルジーや賛美という論調ではない。
昭和時代の文学史において満洲という存在はメインストリームで語られることは無いようだが、影のように付いて回っていることを明らかにしている。
例えば芥川賞の兄弟分のようにあった満州文学賞や、著名な文学者の満洲体験を辿っていくことで、五族協和・王道楽土の欺瞞が透けて見えてくる。
そこには、日本的な植民地支配方式とその失敗の問題があると思われるのだが、そういった領域へは踏み込んでいかない。
また、子供の視線や教育の面からアプローチしているのも興味深い。
あとがきで川村氏は、この本はブリコラージュだと謙遜しているが、満洲問題へのアプローチとして流石だと思った。
敢えて難するなら、新書という形態のせいなのか、やはり論考が尽くしきれていない感が残る。
領域をもっと絞り込んでも良いのではないかと思った。
また、満州で評価された中国や朝鮮の文化人が、戦後に罪に問われたりしたのに対し、日本の文化人は不問に付され、戦後も活躍しているのは対照的だと思った。
そういった意味でも、満洲問題に対する評価と言ったら良いのか、反省と言ったら良いのか判らないが、問題は片付いていないどころか手もつけられていないように思った。
あれは国家の問題です、私たちは間違っていました、と言いながら、いつの間にか戦争が起きていたら、世論は付和雷同するのだろう。
満州国五族協和・王道楽土と言いながら行ったことが、満蒙開拓団やシベリア抑留に繋がって行ったことが、加害者としての反省に結びつかず、被害者意識にすりかえられていき、そしていつの間にか、初めから無かったことのようになるのだろう。
それは、都知事選挙にかこつけて反原発を唱えだす保守政治家たちといったところにも、その構図のできの悪いパロディのように見えてしまう。
もうひとつ思ったのは、金子光晴の自伝三部作が、満州国のあった時期とほぼ同じではなかったか、ということだ。
南北に拡大した日本における植民地文学的な視点として読み返してみるのも良いかもしれない。


異郷の昭和文学―「満州」と近代日本 (岩波新書)

異郷の昭和文学―「満州」と近代日本 (岩波新書)