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雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

イェルサレムのアイヒマン/ハンナ・アーレント

文系

この本もまた図書館で借りた。
最近、図書館や本屋の「アンネの日記」が破られる事件があったが、その事とこの本を読む動機とは関係が無い。
恐らくどこかのブログで、この本の書評を見かけたような気もするが、もう憶えていない。
そもそも、ナチスドイツの犯罪行為については、学校教育で教えられたステレオタイプな歴史知識しか持っていない。
それでも、気に入らない対抗勢力に対して何かとファシズムだとレッテルを貼りたがる、どこぞのヒステリックな評論家風の声には違和感を感じるぐらいの判断はできているつもりだ。
この本は、アイヒマン裁判とは何だったのかを考察した本だと、とりあえず言っておこう。
アーレントはアイヒマンの半生を追いかけ、如何にしてジェノサイドの罪がなされたのかを描き出そうとする。
そしてそこに浮かび上がってくるのは、血に飢えた狂人の姿ではなく、平凡で卑小な(時には虚言癖のある)どちらかというと社畜のサラリーマンの姿に近い。
上司からの指令を懸命にこなし、絶えず交渉と妥協と効率化に追われている。
ユダヤ人とは何かを勉強し、ユダヤ人社会の指導層と交渉し、ユダヤ人問題へ対応する。
知人のユダヤ人には優遇を図るが、上司(つまり、ヒトラー)の意に反すると思われることは行えない。
強制収容所の大量殺戮システムに嫌悪感を覚えても、自分の職務であるユダヤ人の搬送には手を抜かずにやり遂げる。
自分は国の命令に従っただけで、ユダヤ人も非ユダヤ人も殺していないと言う。
アイヒマンがヨーロッパ中を飛び回って移送計画を調整していた足跡を丹念に追ううちに、ヨーロッパ中に蔓延していた所謂「ユダヤ人問題」が浮かび上がってくる。
ナチスドイツが実現したホロコーストは、問題の解決策であり、少数の例外を除いては、ヨーロッパ各地で暗に待たれていたようだ。
正義や悪とは何かと問う以前に、被差別者、迫害されるものとしてのユダヤ民族という共通認識がヨーロッパにはあったことが、ホロコーストを生み出したのだろう。
如何に効率よく為されるべきかをナチスドイツは国家事業として追求し、強制収容所はシステム化されたということだろう。
この大量殺戮システムの生産性向上という文脈において、ホロコーストは連合国側における無差別爆撃や原爆使用と相似形だと言っても良いのではないだろうか。
(戦争概念の変容といった話は、笠井潔氏がどこかで言及していたような気がするが、いま手元に情報ソースが無い。)
ドイツの官僚制の中でアイヒマンは特別な支配層ではなく、どちらかと言えば中間管理職として、ヨーロッパ中の現場調整に奔走した結果、ジェノサイドの罪に問われることになった。
そして、アイヒマンを大量殺戮の張本人として仕立て上げ、アルゼンチンに潜伏しているところを誘拐し連行するという、国家主権を踏みにじる国際法違反をしてまで、イスラエルが行った裁判は茶番に近いものだったようだ。
アイヒマンに問われているのは、ユダヤ民族に対する罪なのか、非人道的行為に対する罪なのか、後者だとしたら何故イスラエルで裁かれねばならないのか、曖昧で奇妙な裁判の後、アイヒマンは絞首刑になる。
この本は、「悪の陳腐さについての報告」という副題がついているが、悪が陳腐なのではないだろう。
陳腐な人間の、陳腐な仕事が、悪を成すことができる、と読むべきではないだろうか。


イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告

イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告