雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

ブッダ最後の旅 大パリニッパーナ経

自分のパーソナリティとして宗教的要素が皆無であるが故、仏経典をどのように読めばいいのか、まだ自分の中で定まっていない。
だから、一字一句を「教え」として受け止めることもできないし、それらに対して批判的な立場を取ることもできない。
できるとすれば、ある種の物語として読むことぐらいだろうか。
この本は仏陀が亡くなる直前の、旅行記であり、その言行の物語だといえよう。
史実なのか、フィクションなのかは問題ではない。
主人公はブッダと言葉を交わす、弟子のアーナンダであろう。
アーナンダに対し、ブッダが繰り返し説くのは、修行である。
繰り返しとなるが、それが史実かどうかが問題ではなく、仏教としての思想は戒律を守り、解脱に至るための修行が中心なのだということだろう。
一神教的な至高の存在を信じることが中心なのではなく、ブッダが示した原則を守り、行動することが中心なのだ。
だから、思想という言葉を便宜的に使ったが、思弁的なものに留まるのではなく、思考も身体も行動も含めて存在全体を律することなのだ。
全てをコントロールし、その究極において存在は、至高へとジャンプするということだろうか。
さてこの理解は合っているのかどうかは判らない。
この本を旅行記として見た場合、大勢の弟子を引き連れて、ここではないどこかへと移動し、そして沙羅双樹の下に身を横たえる。
旅の途中で病に倒れたのではなく、死に場所を探すための旅だったのだろうか、と思った。
恐らくその理解は誤っているだろう。
だが、大勢の弟子を引き連れ、教えを説いて回る姿は、カルト的にも見える。
集団としての仏教徒、その頭領としてのブッダ、という姿が、いささか異様にも思えるのは、きっと自分の中に宗教的要素が圧倒的に欠けているからだろう、とは思う。


ブッダ最後の旅―大パリニッバーナ経 (岩波文庫)

ブッダ最後の旅―大パリニッバーナ経 (岩波文庫)