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雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

三万年の死の教え/中沢新一

文系

死について考えるようになったのは、十代の後半だったろうか。
ありふれた思春期の考えるふりから、始まったのだと思う。
といっても、自殺や殺人を妄想するようなことではない。
その辺りの健全さ、裏返すと、優等生的な発想から逸脱できないのは、あらかじめ限界付けられているのかもしれない。
もちろんそれは、コンプレックスでもなければ、自嘲や皮肉でもない。
ともあれ思春期の頃に、死というものが何であるのか、それを理解できないままに、日常を過ごしていくことに何か違和感を覚えたのは確かなのだけれど、それをきちんと言語化したり、考えを突き詰めることはできていなかったし、それを外部からもたらされた観念として取り憑かれてしまうこともなかったという話だ。
しかし、日常のふとした瞬間に、死はすぐ傍にあることを実感する。
それは決まった時間や場所や場面ではなく、何気ない瞬間であったり、危険に近づいたりする時であったり、様々に生と地続きの死が確実にそこにあると思える。
死は生の終わりなのではなく、生とは異なる存在のありようなのかもしれない、とも考えてみる。
それは、輪廻転生や死後の世界を意味しているのではない。
だがそのことを誰かに告げようともしないし、それについて語り合うことも無いから、静かに死は自分の中に降り積もってゆく。
例えばこういうことだ。
ソフトウェアは実行されれば何かの機能を実現するが、実行されなければ何の役にも立たない。
実行していない状態はソフトウェアにとって何なのだろうか。
実行されているソフトウェアが生だとしたら、強制終了が死だろうか。
しかし、再実行できるのは、いったいどう考えればよいのか。
この考えには結論は無いし、あまり突き詰めて考えようともしていない。
だが、世界のアレゴリーとしてのコンピューターという考えを捨てることはできない。
さて、この本を買ったのはいつだったか、もう覚えていない。
3部構成のうちの、第1部をNHKスペシャルで観たのは確かだ。
チベット死者の書」の解説を、チベットの少年僧が村人の死の儀式を通じて理解する、という台本だ。
とても平易な言葉で書かれており、中沢新一ならではのものだろう。
第2部はチベット仏教思想が仏教以前の土着信仰、死に関する思考が人類誕生以来の三万年の地層があるのではないかと考察している。
第3部はチベットの埋蔵経に関する考察だ。
前にも書いたが自分のパーソナリティとして宗教的要素が皆無であるが故に、この本はすんなり読めるのだと思う。
エリアーデにしろ、中沢新一にしろ、宗教的なるものを人類学的な文脈において理解することは、何ら抵抗が無いし興味深いものだ。
基本的には人類学的な記述であるのだが、ほんの一箇所だけ気になる記述があった。
それは第2部の冒頭で、中沢新一チベットのグルに言われたという、

死がお前を打ち倒してしまうのが早いか、死が襲ってくるのよりよりも早く、お前が真実を悟ることができるか。競争がはじまった。

という言葉だ。
この部分だけは知的興味より別の響きがあった。
自分がなんとなく感じていた生のすぐ傍にある死とはこの言葉のイメージに近い。
だがどうしても、宗教的要素に欠けるパーソナリティのせいだろか、言葉そのままに受け取ることはできない。
たまにはこうして考えてみるだけでもましかとは思う。