この本もまた図書館で借りた。
カレーライスに関する文章を44篇集めた本。
家庭のカレーが一番だという意見は容易く想像がつくが、案外、本場のカレーも人気がある。
軽くサラッと読めるが、時折、クスっとしたり考えさせられるのもある。
この本もまた図書館で借りた。
カレーライスに関する文章を44篇集めた本。
家庭のカレーが一番だという意見は容易く想像がつくが、案外、本場のカレーも人気がある。
軽くサラッと読めるが、時折、クスっとしたり考えさせられるのもある。
この本もまた図書館で借りた。
元の書名は「田中角栄の遺言」だそうである。
実は小室直樹を読むのはこれが初めてである。
市井の学者と言われるのもなるほど頷ける。
非常に論理的であり、正面切った正論を紡ぐ論客であると思った。
日本が近代国家になりきれていない、その象徴的事件がロッキード裁判であり、その被告たる田中角栄こそが、近代政治を体現していたのだという主張である。
義務教育で習った三権分立について、その中身にまで覚えている方は少ないかもしれない。
そして、実際の社会の動きは、そうはなっていない。
学校の授業で習うのは理念であり仕組みであるが、それが現実にはどうなっているかを読み取るのは別の事だろう。
マスメディアで流されるニュース、およびその解説は、特定の考えに基づいていたり、考えすらなくスキャンダラスに垂れ流されているため、ノイズはさらに大きくなっているように思う。
この本での小室直樹による解説は、明確な根拠があり、シンプルな論理である。
民主主義(デモクラシー)とは何であるか、今の日本はどうなっているのかを考える手立てになると思う。
久しぶりに読む安部公房は、相変わらず居心地の悪さのようなものが漂っていた。
恐らく永遠に居心地の悪い小説のような気がする。
いまさらあらすじを紹介したり、何のメタファーなのかという話をするのは、止めておこうと思う。
昆虫採集を趣味とする男が砂の中の家に囚われてしまうという設定だけでも、この物語は価値や視点の転倒を意図したものだとわかる。
転倒すること、逆撫ですること、それが主題なのだとしたら、居心地の悪さは説明しきれていないような気がする。
捕える者と囚われる者、支配と被支配、見ることと見られること、そういった二項対立の転倒だけではない物語の居心地の悪さは何なのだろうか。
全ては主人公の目を通して語られてゆくが、それが何を意図した出来事なのか、そこにどんな背景があるのかは主人公の想像の中でしかない。
まるでCamera Obuscraで映し出された世界のようだ。
物語の中で発生する出来事は、主人公の思惑とは逆の方向に進んでいくが、それはつまり主人公だけが世界の外にあることに他ならない。
これは対立というよりは、疎外というべきか。
世界線に含まれないことの居心地の悪さというのはあるかもしれないが、それだけでもなさそうだ。
安部公房はまた読み返すだろう
星野博美を知ったのは、このブログをはてなに引っ越した頃に見ていた、とあるブログだったと思う。
そのブログがどこだったかもう覚えていないが、おそらく同年代だろうと思われるブロガーが、星野博美にシンパシーを寄せていたのを覚えている。
かれこれ10年近く前だと思うのだけど、それからしばらくして何冊か自分でも読んだのが数年前のことだ。
本を手に取る波みたいのがあって、何となくまた読みたくなった。
この「コンニャク屋漂流記」は、祖父の手記から自分のルーツを探すエッセイである。
外房の岩村田、戸越銀座、そして和歌山の加太を巡る。
家族の物語でもありながら、街の記憶でもある。
祖父の足跡と小林多喜二の足跡が交差するとか、ルーツ探しだけではない側面もまた面白い。
祖父に対する想い、同郷の親戚らへの想いから、いささかファナティックに語られる想像の歴史はちょっと違うような気もするが、面白いと思う。