雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

ブラックマーケティング/中野信子、鳥山正博

この本も図書館で借りた。

中野信子氏をどこで知ったのかもう定かではないが、氏の本が読みたくて借りてみた。

脳科学者として氏の活動をどこかで見かけたのかもしれない。

鳥山正博氏は経営学者とのこと。

脳科学経営学という組み合わせでマーケティングに関する本、というのは全く想像がつかなかった。

そして読み始めてみると面白くてあっという間に読み終えてしまった。

従来の(と言えるほど勉強してはいないが)マーケティング理論では、STP(セグメンテーション、ターゲティング、ポジショニング、これぐらいは知っている)に基づいた商品開発が行われるが、この基本的な枠組みでは説明できない消費行動が増えているという。

そういった様々な悪徳商法を含めた手口に引っかかる人間の行動、脳内物質が関係していることで説明できるのではないかというのがこの本の趣旨である。

中野氏と鳥山氏が交互にキャッチボールデモするかのように話題をつないでいく。

なるほどそういうことだったのか、と納得できる点も多いのだが、それで解った気になってはいけないのだろう。

理解できたからといって、悪徳商法の手口に乗ることはないとは言いきれない。

まだ未解明の部分も多いようだ。

またSNSは幸福度を下げるというのはなるほどなと思った。

ともあれ刺激的な1冊であったのは間違いない。

 

 

 

この人を見よ/フリードリッヒ・ニーチェ

久しぶりに読み返す。

確か正気だった頃のニーチェの最後の本だったかと。

持っているのは岩波文庫版と新潮文庫版。

プラトンの理想主義に対する明確な否定があった。

たぶん同じ頃に読んでいたのだが、どう思っていたんだろうか。

むしろ理想主義的な方に流されていたのかもしれない。

 

この人を見よ (岩波文庫)

この人を見よ (岩波文庫)

  • 作者:ニーチェ
  • 発売日: 1969/04/16
  • メディア: 文庫
 

 

ソクラテスの弁明/プラトン

持っているのは、新潮文庫版と角川文庫版。

読み返したのは田中美知太郎訳の新潮文庫

ボールペンで傍線が引かれていて、今更ながらに、古本で買っていた事に気づいた。

たぶん高校生の頃に買ったのだろう。

ソクラテスが何を弁明し、何を主張したのか。

この本であればプラトン自身の考えは凡そ入り込みにくいのではないかと考えた。

もし、その想定通りであれば、ソクラテスという人物の主張によれば

 ・有名人を狙って議論を仕掛けに行った

 ・誰もが馬脚を顕した

 ・見物客は有名人がこき下ろされるのを喜んでいた

 ・神の教えに従っただけである

 ・報酬はもらわない

 ・国家社会の要職に就くつもりは無い

ということだが、これは弁明なのだろうか。

職業としての弁論家ではなく、ただ彼が信じるところの「神」に従って議論を仕掛けた事になっている。

彼の信じる神と、アテナイ人たちが信仰している神は、同じ神なのだろうか。

神の教えに従い、社会の中の富裕層を狙い撃ちにして議論をふっかけるが、そもそも報酬目当てではない。

真実を見つけるまでと言うが、議論相手が根絶するまで活動は継続するつもり、のようにも見える。

アテナイの国家にとってソクラテスの活動は、政治的にも経済的にも枠組みから外れているばかりか、現秩序の破壊者として活動しているようにも見える。

実際、告訴した人々への呪いの言葉だって吐いている。

価値を共有しえない人物は、社会、経済から抹殺されると言うのが、この本の主題なのではないだろうか?

 

 

 

プロタゴラス/プラトン

プラトンの著作の中でも、これは面白いのではないだろうか。

高名なソフィストプロタゴラスアテナイを訪れているというので、ソクラテスが会いにいく。

そもそもソフィストとは何を教えるのか、というのが対話のスタートである。

ソフィストは弁論術を教える者であり、それは他の職業における技術と同様に、国家社会に有用な技術を教えるのだ、とプロタゴラスが主張するのに対して、それを徳の問題にスライドさせて、徳は教えることが出来ないとソクラテスは主張する。

だが長い対話の最後で、ソクラテスは徳とは知識の一部であると主張しており、プロタゴラスは知識ではないと主張している、とソクラテス自身がまとめている。

だが、最初に議論を間違えたのは、ソフィストが教える技術が徳という抽象概念と同じであると混同したソクラテスにあるのではないか。

またそもそも、この対話編におけるソクラテスが、ソクラテスの実像なのか、ソクラテスに仮借したプラトンなのかという疑問もある。

おそらくは、これはプラトンなのではないかという気がする。

プロタゴラスもまた、これはプロタゴラス個人の主張というより、プロタゴラスに代表されるソフィストという社会の中のセグメントの主張であるように思う。

物事を真・善・快の系列と、偽・悪・苦の系列に分類して、人間というものは前者の系列を行うのであり、進んで行うべきであるとプラトンは主張する。

二元論で世界を捉え、片方を正とし、他方を不正であるとする考えは、原理主義の萌芽であると思う。

一方でソフィストの立場は、国家社会における技術(主にそれは弁論術として相手を説得するための技術と思われる)を説くというのは、政治の職業化を表しているとも推測できる。

社会における政治、政治における議論が、技術によって為されるべきか、或いは一つの原理によって為されるべきか、という問題もこの対話篇の背後には隠れている。

そしてそれは、現代の民族主義的な不寛容さ、異質な文化に対するアレルギー的な排斥、単純化された世界認識に基づくアジテーションの応酬といった行動とどこかでつながっているように思う。

ソフィスト的立場は、明確にそれを主張する者がいなくても社会的事実として存在し、社会の変革を目指すものは、程度の差はあれ、プラトン的に成らざるを得ないのかもしれない。

この対話篇での議論を通じて、プラトンが説得に成功しているとは言い難い。

プロタゴラスもまた、この議論で自らの立場を擁護できているとも言い難い。

だが、この対話の失敗は、最初の問題のすり替えだけでなく、原理主義的主張に対する、現実解からの軌道修正ができていないことにもある。

ソフィストを攻撃するプラトンの立場としては、ソフィストが答えに窮すればそれで目的は果たせているだろうが、プラトン自身の主張を受け入れられている訳ではない。

そしてそれはプロタゴラスからも「君が自分で片付ければいいではないか」と言われている。

自分たちで思っているほど私たちは進歩などしていない。

 

プロタゴラス―ソフィストたち (岩波文庫)

プロタゴラス―ソフィストたち (岩波文庫)

  • 作者:プラトン
  • 発売日: 1988/08/25
  • メディア: 文庫
 

 

インド夜想曲/アントニオ・タブッキ

もう何度目になるか、また読んでみる。

同じ本を何度も読むのは、新しい発見の体験ではない。

だが、居心地の良い場所に籠もる事でもない。

ストーリーに身を委ねながら、ディテールを味わう。

物語のメッセージを噛み締め本を閉じる。

 

 

栗本慎一郎最終講義/栗本慎一郎

個人的にちょっとした栗本慎一郎の再評価の波が来ている。

最新刊である「全世界史」のコンパクトな解説であり、おまけであるような感じがする。

もちろんそれがこの本の評価を下げているわけではない。

栗本氏の著作の良き読者を僭称するつもりもないが、各著作から予想し得る内容ではあり、内容に目新しさは少ないとも言える。

だから、この本をイントロダクションとして栗本氏の著作に入っていく事は難しいと思う一方で、栗本氏の著作を読んでいるのであればこの本で新たな発見は少ないのではないだろうか。

なかなか位置づけが難しい本かもしれない。

 

 

脳・心・言葉/栗本慎一郎、澤口俊之、養老孟司、立川健二

この本もまた図書館で借りた。

というか、もう絶版になっているようだ。

栗本慎一郎「自由大学」講義録5 なぜ、私たちは人間なのか」

こちらは副題だろうか。

タイトルの通り、脳科学と心と言葉と人間存在、というテーマで語られる。

「エラノス会議」のようなものを目指していたのだろうか。

また、90'sの栗本慎一郎が志向していた統一理論的なトーンが強いようにも思う。

たぶんこの頃より、だいぶ世界は後退してしまったかのように思える。