勝新の自伝である。
例のパンツ事件の話から始まり、子供の頃から映画の話、中村珠緒との馴れ初めやTVの話など、勝新の半生が語られる。
たぶんこの本の数百倍のエピソードがあるのだろうけれど、その一端を覗くことができる本である。
難しい話など要らないが、人の半生を聞くのは面白い。
ましてや、勝新太郎においておやである。
電子書籍で買った。
何だかひどく疲れているので、こういった本に眼が行ってしまう。
疲れる原因というのは分かっていて、単純なものではないし、回避すれば良いという類のものでもないので、それらとどう付き合っていくのかという方法を探さねばならない。
そういった意味でも、この本は示唆に富んだものではあった。
そうなんだよな、と思う点も多いのだが、それが避けられない理由でもあったりする。
なかなか難しい。
この本もまた図書館で借りた。
何年か前に読んだ事がある気がする。
パリのカフェでの哲学論議を仕掛けていた哲学者らしい。
たぶん同じような事をやろうとしてた動きがあって、その頃に読んだような気がする。
アカデミックな場所から哲学を解き放って、人々の手の届く哲学を試みようという、ある意味ロマンチックな話だ。
当然ながら快く思わない人もいるものだから、後半は著者のメディアに対する反論というか態度表明のような文章である。
これは面白いのだろうか。
たぶんクローズドな読書会的なものであれば、特に問題は無かったのかもしれない。
オープンな場所でそれぞれのイデオロギーを表明する事に価値を見出すことが難しいように思う。
それはアジテーションと何が違うのか、勧誘と何が違うのか、結局のところ啓蒙主義から脱していないのではないか。
今ひとつ面白いとは思えないものがある。
この本もまた図書館で借りた。
順番待ちが50人以上で、予約してから半年近くかかったんじゃないだろうか。
脳科学者による正義中毒についての考察である。
面白いのは発生原因が脳内物質によるものなのに、対応策はそうじゃないという点である。
すべての現象を化学反応に還元できるというのは、だいぶ古い考え方だろうが、脳内物質と人間の行動の関係は脳科学という分野で研究されているらしい。
なので脳科学の本を読むと、何かが分かったような気になってしまうが実際はそうではない。
この本を読むと、なぜに対する答えを無意識に求めてしまうが、答えはない。
感想を書こうとすると、答えを書こうとしてしまう。
それほどに安易な物語や陰謀論の重力に負けそうになるのが脳の働きなのだろう。
などとつらつら考えているうちに、知り合いが正義中毒気味になっていた。
難しい日々である。
高橋源一郎を知ったのは、高校生の頃。
「さようなら、ギャングたち」と、あと何冊かを読んだ記憶がある。
80'sの頃は、こういう小説が新しくて、なんだかすごいと思っていたのだ。
10代から20代の頃の価値判断なんてそんなもので、浅はかな知識と思考で選択をしてしまいがちなのだと思う。
だがそれだって限られた友達たちの狭い世界から外へ出ていくためには致し方ないことで、結果的には失敗するかもしれないし成功するかもしれないが、それはどっちでも良いことなのだと今になって思うので、あの頃の自分に何か言ってやる機会があったとしても何も言う必要はないのだと思っている。
その証拠にこうして何十年ぶりかで高橋源一郎の本を手に取ることができている。
この本も図書館で借りた。
これは小説ではなく、どちらかというと社会の傍流で生きる人々を取り上げる随筆である。
ノンフィクション、という言葉と、ルポルタージュ、という言葉、どれがふさわしいかと考えたが、ここではあえて随筆と言っておく。
書かれたのは2012年以降、取り上げているのはダウン症の子供たちのアトリエ、身体障害者たちの劇団、ダッチワイフ工房、電気を使わないで暮らす人、授業のない学校、尾道、子供向けのホスピス、といった内容だ。
副題が「希望の場所を求めて」とあるよう、これは3.11とその後の社会に対するアンサーなのだろう。
だから、何かを調べる、隠れた真実を描き出す、といったノンフィクションやルポルタージュという言葉から連想するような内容ではなく、高橋源一郎という小説家の随筆なのだと思う。
この本は、取り上げている人々に寄り添うような文章であることに魅力を覚えた。