雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

パルタイ/倉橋由美子


たとえてみた所で

パルタイ (新潮文庫)

パルタイ (新潮文庫)


パルタイ」が何であるかは、ネットで検索すればすぐわかる。そんなことより、その音の響きが、この小説を良く表しているような気がする。「パルタイ」という言葉が意味するものが、この寓話(あえて小説と言わないようにしよう)の意味するものではないような気がする。そのエクリチュールが示唆する生理感覚、糞便のモチーフ、性的倒錯、極端に記号化された名前、諧謔的な笑い、そういった一つ一つの組み立てが倉橋由美子的な特徴なのだと思う。何かを揶揄したり、現実批判としての暗喩や比喩ではなく、現実のモチーフを転換させる作業がこの寓話を成り立たせている。従って、物語の距離感は歪み、時間の長さは不規則になっている。「パルタイ」の意味するところ、指し示している対象への批判として読み取るのではなく、「パルタイ」という音の響きへの転換作業、指し示すものから拾い出す諧謔味、あえて表層にとどまり続ける生理感覚、それらは受け入れるか、受け入れないか、二者択一を迫っている。なぜならここにあるのは転換作業であり、書き表されたもののイメージであり、意味するものはその価値を限りなく無化されていると思うのだ。好きか嫌いか。もちろん私は好きだ。しかも、倉橋由美子を見つけた高校生の自分を、ちょっと見直すのだ。