雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

ゲバラ日記/チェ・ゲバラ


夢を見るなら覚めない夢の方がいいのかもしれない

ゲバラ日記 (角川文庫)

ゲバラ日記 (角川文庫)


もうだいぶ前に買って何度か開いてみるのだが、どうしても読み通すことが出来ない。チェ・ゲバラにも、共産主義にも、ゲリラ戦にも特に興味は無いのだが、何となく買ってしまって以来、たまにつまみ読みをしては、また仕舞ってしまう。これが書かれたのは、まだ、資本主義と共産主義二元論的に勢力争いをしていた1960年代の終わりである。20世紀が革命の世紀だと言ったのは誰だったろうか?政治学も経済学もまったくの素人だが、マルクスが夢見ていたメタレベルの資本主義としての共産主義が、帝政ロシアという資本主義社会の辺境から思わぬ形で現実の中に産み落とされ、やがてはアメリカ的資本主義とソ連共産主義二元論的世界のぬり絵が進む中で、アジア、アフリカ、中南米といった、云わば貧困の世界から共産主義によるユートピアを夢見る人々が現れてきた、というのが20世紀前半の共産主義という夢だったのだと思う。社会資本の充実と市場経済の成熟に基づく資本主義的な夢が、絶えず何かしらの不均衡を前提にしているのに対して、絶対的平等に基づいた権力による富の再分配という共産主義的な夢は、貧困と不平等が、明日餓死するかもしれないという生命の危機までもが目の前に迫っているという状況であれば甘美な香りがするのかもしれない。このゲバラの日記を読んでいると、何かを我慢し、誰かに耐えることを強制し、時には権力を振りかざして、ユートピアを夢見ているその姿が、なんとも痛々しいように感じる。20世紀の終わりに共産主義が自滅していったのは、そのユートピアの夢から覚めてしまったからではないだろうか?それは不意に訪れた朝であり、長い夜の終わりであり、青い鳥はユートピアにはいないという教訓だったのかもしれない。