雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

ソラリスの陽のもとに/スタニスワフ・レム


とにかくややこしい


言わずもがなレムの名作の「ソラリス」である。
これは自己認識と他者認識に関する、ややこしい観念小説であると言えよう。
そのややこしさは物語としての出来に起因するのではなく、扱うテーマに起因するのであろう。
精神活動としての自己認識・他者認識は、少なからず相互理解の前提の上に立っているといえる。
それは、記号論で言うところのシニフェ/シニフィアンの構造が精神活動のフレームワークとして存在しているが故に成り立っていると考える。
つまり、表象論的な差異は意味論的な次元での回収が可能であり、その構造自体が普遍的な共通認識として可能であるが故の解決である。
だが、ソラリスは未知の生命体である。
この作品の紹介を見ると、高度な知性を持っていることになっているが、注意深く読んでいくと作品自体では断定されていない。
人間と類似した知性を前提としたさまざまな試みの失敗が連ねられ、ソラリスからも同様にさまざまな試みがなされているが、相互理解が成り立たないがゆえに、この物語の悲劇性の原因になっている。
従って、この物語はディスコミュニケーションの物語という読みも可能であろう。
また、理解不能性から自己認識・他者認識の基盤が揺らいでいく過程もこの物語の核にあるように思う。
ソラリスとの接触を試みているステーションに滞在する3人を乱暴にまとめると、理想派と現実容認派と自己批判派といったん括っておく。
自己批判派の自殺後、そこへ主人公が到着する。
ソラリスとの接触により、どのように主人公の自己認識・他者認識が変化していくのか、という物語でもあるように思う。
結局、ステーションの3人はどのようにソラリスと向かうのか、結論は示されない。
それは自己認識に果てがないことの双子であるように思うのだ。
そしてそれは、ソラリスからステーションの3人に対しても同様であり、お互いのすれ違いがこのまま続くだけなのかもしれない。
知性という枠組み自体の不確かさに気づいてしまったこと、それがこの物語のややこしさなのだと思う。