雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

死に急ぐ鯨たち/安部公房


微かな反感と示唆

死に急ぐ鯨たち (新潮文庫)

死に急ぐ鯨たち (新潮文庫)


夢中で安部公房を読み耽っていた頃は、その小説世界のイメージ(物語でも論理でもない)に惑わされてそこに込められていた内容を掴み損ねていたような気がする、と思わせる一冊だ。
もちろん作者と作品は別のものだし、この本の中で安部公房自身が言うように、「作者をよく知るものが作品をよく知るとは限らない」のではあるが、安部公房というフィルタを通した世界はどう見えるか、ということと、安部公房の小説という物語機械の間にある関連を探るのも、ひとつの楽しみではあるに違いない。
西欧中心主義とその裏返しであるオリエンタリズムの両者ではないコスモポリタニズム、と括ってしまうことは非常に安易で安っぽい考え方ではあるが、この地上に無い別の場所からシグナルを発することは可能だと思わせる。
自らの正しさを声高に唱えることではなく不快感や違和感で語られる微細さが、大きな物語へのアンチに通底すること、それは安部公房自身の考えと小説世界の構造であるとともに、安部公房自身の考えとこの現実との構造でもある。
気に留めておくべき不快感は色々あった。
例えば、火災現場で逃げる人々が忘れ物に気づいた一人を待ってしまい全員が死んでしまったのではないかという事件、鯨の集団のうち溺れる恐怖に囚われた一匹が迷走し全部が浅瀬に乗り上げて死んでしまったのではないかという推察、核廃絶の論調に隠された破滅願望の匂い、一人しか助からない浮遊物と二人の溺れる遭難者の選択の寓話、核シェルターに纏わりつく選択と排除の論理など、読んでいる時は微かな反感すら覚えるのだが、その真偽がどうとかではなく、その視点から世界を眺めることが、冷戦構造を背景とした主張を突き抜けて、9.11以降のこの世界にいることに対してもある種の示唆があるように思う。
また、収められているインタビューなどは「方舟さくら丸」を中心に語られている。
それは「方舟さくら丸」に登場するユープケッチャなどの様々なキーワードを中心に様々に語られるのだが、「方舟さくら丸」を読んだ当初は読みきれていなかったようだ。
また、改めて読んでみるのも良いかもしれない。