雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

ムーン・パレス/ポール・オースター


太陽は過去であり、地球は現在であり、月は未来である

ムーン・パレス (新潮文庫)

ムーン・パレス (新潮文庫)


この本を読み返すのも、もう何度目だろうか?
以前読み返した時は、「死と再生の物語」と捉えたが、果たしてそれは正しかったのだろうか、と今回は思った。
ここにあるのは、繰り返される(または変奏される)喪失の物語では無いだろうか。
ビクター伯父さん、母、トマス・エフィングことジュリアン・バーバー、ソロモン・バーバー、キティ・ウー、ジンマー、様々な登場人物たちが主人公に関わるが喪失してしまう。
彼らもまた様々な喪失があり、それらが重なり合いながら物語が進む。
そして喪失してしまったものは、もう元には戻らない。
重層的に語られるエフィングの物語も、ソルの物語も、MSと相似形である。
だがそこからの脱出は、必ずしも再生では無いのではないか、と思うのだ。
物語は既に喪失してしまった物語であり、その時点での未来は暗示として表れているのだが、それは現時点では逆説的に実現しなかった未来であったことを示してしまっている。
月によって暗示される未来は、暗示されるだけである。
そしてそれは太陽の景色の次に現れるが、そこには登場人物たちの喪失に結びついている。
喪失と「偶然の一致」での暗示が交錯し状況が変わる。
だがMSは偶然の一致が意味するもの、偶然の一致そのものを捉えることは出来ない。
MSは物語を通して成長などしていない。
喪失と偶然の一致の連なり、それはMSの人生そのものであるが、偶然の一致が何であるかを理解したところで、人生の意味がわかるというものではない、ということが物語の隠された主題であるように思う。
何かに到達するという主題ではなく、到達できないという主題が繰り返されているように思うのだ。
これは青春小説のパロディなのかもしれない。