雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

シュルレアリスムの資料(シュルレアリスム読本〈4〉)


この本はモーリス・ナドーの「シュルレアリスムの資料」のほぼ全訳とのこと。(ほぼというのは何だろうか)
時系列にシュルレアリストたちのパンフ、ビラといった類の文章と、それらの挑発に対する反論などが収められている。
シュルレアリストたちは内部対立や除名などを繰り返し、メンバーは激しく入れ替わる。
個人的に気になるのは、ロベール・デスノス、アントナン・アルトールネ・ドーマルジョルジュ・バタイユマルセル・デュシャンといったところだ。
彼らの合流、離反、それらにまつわる非難と反論の言説が生々しい。
ロベール・デスノスは、ブルトンが個人的なことを公にしたと非難する。
アントナン・アルトーは権力志向を非難され、ブルトンの思考が浅いと反論する。
ルネ・ドーマルとその仲間たちは、若く、無責任であると非難される。
ジョルジュ・バタイユはそのいかがわしさを非難されるものの、「反撃」(コントル・アタック)ではブルトンと合流する。
マルセル・デュシャンは初期からいたはずなのに、署名に名を連ねるのは1930年代なのはなぜだろう。

シュルレアリスムという運動が芸術という枠を超えて行こうとする志向、それがメンバーたちのフリクションを生み出しているようだ。
現実という眼に見え、手に触れる世界だけではない、夢や狂気という日常の裂け目から溢れてくる現実を超えた世界、そこを存在の基点とすると考えた場合、それは精神的な変革を要求する一方、現実世界の転倒をに要求していく。
前者が、アルトーバタイユたちを惹きつけ、失望させられた部分であり、後者が「革命」というキーワードの元にコミュニズムに接近していった部分なのではないだろうか。
それは、不徹底さと軽薄さの表れと言えるかもしれない。(だが一方で、シュルレアリスムの各手法における遊戯性という側面にも関係があるように思うのだ)
シュルレアルを標榜し、価値の転倒を図ること、それは価値観の転換を図る精神の内側へ向かうベクトルと、現実世界で他者の価値観に転換を要求する革命思想へ接近しようとするベクトルとして現れるだろう。

この本に収められた資料群から見えてくるのは、20世紀初頭の嵐のような社会不安を時代背景として、周囲からはその政治的立場の表明を要求され、また自ら表明しようとするグループの姿と、そこに関わるシュルレアリストたちの様々な思惑や衝突、葛藤が透けて見える。