雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

文明の衝突と21世紀の日本/サミュエル・ハンチントン


図書館で借りて読む。
国際政治の構図を、超大国、大国、地域大国、その他の国々と分類し、それぞれの文明と関係を衝突として論じている。
これまではイデオロギーをベースにした国民国家を基本単位として、国家同士がパワー競争をしていた。
やがて、2極の超大国のバランスが崩れ、他の勢力の台頭により、唯一の超大国と複数の大国、地域大国、その他の国々と構図が変化している。
イデオロギーでまとめられていた国家は、文化、民族の枠組みで再編されつつあるという。(ソ連ユーゴスラビアの分割、EUの形成、ロシアや中国を中心とした様々な枠組みといった動き)
そして、イスラム世界や東方正教会世界、アフリカ世界などが、政治/経済の局面で勢力を伸ばすという。
また、アメリカの特異性についても言及している。
まぁ、なるほどね、とは思うが、それで何かが判ったつもりになってしまうことには、些かの不安がある。
この本自体の考え方、サミュエル・ハンチントンの考え自体の普遍性はどれぐらいあるのだろうか。
あるいは、国際政治という対象に枠組みをはめて考えていくこと自体が、何らかのイデオロギー、または特定の文化を背景とした言説の表明なのではないだろうか。
それぞれの読む立場の人にとって、この本で繰り返される主張は受け入れがたくもあり、一方的な偏見にも捉えられるような気がする。
つまり、現実世界をどう切り取るのか、そこにどのような構図を重ね合わせるのか、ということに含まれる、暗黙の立場の表明については無関心なのか鈍感なのではないかとさえ思われるような記述に思える。
もちろん、著者は国際政治学者なのであり、記号論やテクスト論には無縁だろうし、たぶん主張したいこととは異なるのだろう。
新書だから凡そのアウトラインを描いた本なのかもしれないが、文明が衝突するということは何を意味しているのか、衝突しない文明は存在しうるのか、そもそも衝突とは何か、さらには、文明の意味するところ(仮想の到達点)は何か、ネットのような(基本的に)無国籍な世界をどう考えるのか、様々な疑問があると思う。
日本は単独の文明であり、文化であるという。
だが、なぜ単独と言えるのかその根拠はよく判らない。
何度か説明が登場するが、文明と文化の違いがよく判らないのだ。
例えば、ユーゴ紛争はカトリックイスラム東方正教会を背景とした各国家の肩入れがあったという。
それはイデオロギーをベースとした国家の繋がりではなく、それぞれの民族、文化の親近感による繋がりだという。
文明の下部構造としての文化、あるいは、文化の上部構造としての文明を想定するなら、そこには文明の衝突があったと言うことかもしれない。
しかし、それは定義の問題であり、文明と文化は入れ子の構造になっていないだろうか。
日本文化というものがあるとするなら、古典的な伝統文化と、明治以来の西欧文化の日本的解釈、WW2以降のアメリカ文化の受容、マンガ/アニメをその主な表現手段とする新しい文化が雑多にかつ緩やかに繋がって存在しているように見える。
その総体を日本文明とすることも可能だが、例えば、伝統文化で言うなら書、文芸、絵画、建築、陶磁器といった様々な領域に中国、朝鮮、ベトナムの影響が見られるし、それらを中国文明(または東アジア文明?)の一部とする考え方も可能だろう。
マンガ/アニメ文化が世界中に広がっているが、それに対して文明としての衝突(排斥運動とか?)はあるのだろうか。
つまり、文明、文化といった考え方は恣意的な区別に過ぎず、実際のところ何も表してはいないのではないだろうか。
今ひとつ消化不良感が残る。

文明の衝突と21世紀の日本 (集英社新書)

文明の衝突と21世紀の日本 (集英社新書)