雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

「空気」の研究/山本七平


この本も図書館で借りた。
「空気」といっても、窒素78%、酸素20%、その他2%の「大気」のことではない。
意思決定のプロセスにおいて、合理的な論拠がある主張よりも、非合理な結論を導き出してしまうことがある。
それはその場の「空気」がさせたのだ、という言い方をする。
わりと古い本なのか、あるいは著者の山本七平の趣味なのか、旧日本軍の話や公害問題の例が目に付く。
もしかしたら、出版された当初は共通理解的に説明が不要な部分だったのかもしれないが、その辺の背景が今ひとつな感じもする。
だが、去年だったか「KY」というキーワードが流行したり、バラエティ番組で「空気読め」的な言葉が飛び交ったり、この本で考察されている「空気」は相変わらず存在する。
仲良しサークル的な雰囲気をまとめ上げるキーワードとして、この「空気」は便利な言葉のようだ。
仲良しサークルで、仲良しである限りにおいて使われる分には、まだ害は無いだろう。
だが、いったんその「空気」が共通認識的に存在しだした途端に、排除の力が働き出す。
例えば、旧日本軍での話や、公害問題で「車」が悪である、といった主張のように、「空気」に反することが善悪の判断基準に影響を及ぼしてしまう。
対象を絶対化してしまうことでそれに支配されてしまうという構図が、日本人の深層にあるアミニズムとの関連において語られ、概して日本人は「おっちょこちょい」な民族だと語られるが、それは果たしてどうだろうか。
(むしろ、フランス現代思想の流れや、丸山圭三郎の「言分け・身分け」の文脈で捉えなおした方が良いかもしれない。)
この「空気」の分析で、連想したのが、小泉内閣の「郵政改革」であり、鳩山内閣の「政権交代」であった。
どちらも、内容が議論されていないとは言わないが、論理的な内容の是非よりも心情的な言説で、反「郵政改革」の立場をとる人々は「抵抗勢力」とのレッテルを貼られて、それが悪であるかのように喧伝されていたのではないか、「政権交代」をすれば全ては解決する、実現しなかったら日本は滅んでしまう的な言説が吹き荒れていなかったか、そんなことを思い出す。
そして「空気」の次は「水」である。
「水」とは何か。
「水を差す」といった使い方に示される、「情況論理」だという。
あの時のああいう情況であれば、という論理であり、それはそれで仕方がなかった、という「情況倫理」に結びつく。
この本の要約は著者自身が他の人の例を引くにあたって、こんな風に纏めている箇所がある。

「情況を臨在感的に把握し、それによってその情況に逆に支配されることによって動き、これが起る以前にその情況の到来を論理的体系的に論証してもそれでは動かないが、瞬間的に情況に対応できる点では天才的」

この本は日本人批判として、どんなに表面をすげ替えてみても、深層に流れているものが変わっていない、というか、表面をサクサクとすげ替えることで深層を保っている、という指摘であろう。
さらにどんなに西欧化した、近代化したといっても、根本で理解できていない概念が、「自由」であるという。
ある状況を「空気」「水」という言葉にあてはめて説明する、という手法は巧いと思う。
だがそれで「日本」、「日本人」という全体を想定させる対象を語ってしまうのは、素直には受け入れがたい。
なぜなら、全体を想起させる概念への批判は、全体の外部から行うならば矛盾であり、全体の内部から行うなら自己崩壊であり、結局のところ、「日本」「日本人」という概念に何かレッテルを貼ることへの反論は、新たなレッテルを貼ることでしかは成り立たないであろう。
内容の是非はともかく、様々な示唆を含んだ本であるように思えた。
そしてこのような本が割と売れて経営の古典とも言われていること自体がこの本の批判の対象なのではなかったか。
そしてそれは逆説というより、問題の根深さを表しているようにも思える。

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))