雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

サラサーテの盤/内田百けん

恐い話とは一体なんだろうかと考えると、それは恐くなくなってしまうようだ。
最近ちょっと一般化した「都市伝説」も恐い話の系列に加えても良いとは思うが、そこには恐さよりも意外性やナンセンスが強調されているように思う。
では、昔からある「怪談」は恐い話だろうか。
テレビやラジオ、もっと遡れば、落語家といった、所謂、「見る」「聴く」という行為で「恐い」を演出する怪談が、ひとつあるように思う。
では、文字だけの本における「怪談」とは、本当に恐いだろうか、と立ち止まってしまう。


内田百輭のこの本に集められた21篇は、怪談ではない、と思う。
だが「恐い」と言う感覚を演出している。
それは、例えば「東京日記」であり「サラサーテの盤」であり「とおぼえ」であり。
読んだ後の、不快ではないが薄気味悪さというか、気持ち悪さというか、そういった感覚を刺激される作品である。
何も恐がらせようという話ではない。
淡々と語り、ちょっとおかしなことがあったり、あるように見せかけていたり、だが、あからさまに語りはしない。
何が恐いのかうまく説明できない。
だが、あからさまに語られないことで読み手の不安を刺激している。
そこに確かに何かがあると思わせているのに、それが語られない、語らないことで何か不安な感じがする、そういった種類の話であるように思うのだ。
怪談という物語のフォーマットとしての、因縁は語られない。
狂気めいたことがあっても、それはクローズアップされない。
不条理めいた出来事が起こるが、その原因も顛末も追究されない。


その抑制の効いた端正な文章は、今更ながらに大人の文章だと思った。
そして、読み手にも大人であることを求められているように思う。