雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

オルレアンのうわさ―女性誘拐のうわさとその神話作用/エドガール・モラン

良く知られている都市伝説に、「達磨」というのがある。
様々なヴァリエーションがあるが、こんな骨子である。


・何人かで旅行に行く
・その中の一人が現地で洋服店の試着室に入る
・残されたメンバーがいくら待っても、その一人は帰ってこない
・店員に聞くと、そんな客はいなかった、と追い返される
・その後、行方不明になったメンバーを探しに行く
(または、行方不明になったメンバーが見つかった、との情報が入る)
・そこにいたのは四肢切断され、「達磨」として見世物にされている姿であった


これに、まことしやかな具体的な情報の付加や、状況演出が施され、様々なヴァリエーションが伝わっている。
だが、そういった事実があったのかどうかすら、確認できないだろう。


この都市伝説の前半部分に似た噂が、1969年のフランスのオルレアンで広まり、暴動寸前まで至ったという。
この街にある、何軒かのブティックで、試着室で女性が誘拐されそうになった、という噂が、やがて行方不明者の数は増え、店を繋ぐ地下通路で運ばれたことになり、ユダヤ人たちが疑われ、根も葉もない中傷や反感が街に満ちる。
この本は社会学の観点から、このオルレアンでの噂を分析している。
噂はどのように広まったのか、噂に込められてゆくそれぞれの立場の人の意識せざるメッセージ、こめられたメッセージに対する反応の連鎖、そういったプロセスをオルレアンという街の社会におけるグループとの網目にして考察している。
うわさの生成はどのグループだったか。
それを広めたのはどのグループだったか。
どのグループがそこにどんなメッセージを込めてしまったか。


著者たちはそこに「神話」を見出しているが、それは今ひとつ違和感を覚える。
なぜなら、ここで使われている「神話」という言葉に、「大いなる物語」としての価値が見えてこない。
噂が流通するのはその付加価値に重点があり、その付加価値の変遷として捉えることが出来るだろう。
つまり、日常からの差異として、噂という物語が生まれる。
日常はその物語が生まれる土壌であり、生まれた物語は日常に刺激を与える。
噂が伝えられるうちに付加価値が付けられる。
より刺激的で、より日常とのリンクが強化される方向に成長していく。
だが同時にその付加価値は、普遍的なものから個別なものへと、より狭いターゲットの価値を目指しているのではないだろうか。
噂の広まり度合いと物語としての価値は反比例するかのようだ。
「神話」が共同体で共有され、その価値を個別から普遍へと純化し、共同体を強化するための物語として存在するのだろう。
それに対して、「噂」は種が蒔かれ、様々な共同体に伝播する中で姿を変えてゆき、変異し、個別化し、やがて物語として消費されつくす。
違和感の原因は物語のベクトルにあったようだ。


オルレアンのうわさ―女性誘拐のうわさとその神話作用

オルレアンのうわさ―女性誘拐のうわさとその神話作用