雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

神になった人びと/小松和彦

著者の小松和彦民俗学者であり、「妖怪」や「憑依」「鬼」といったテーマの著書がいくつもある。
そういったテーマを通して、共同体の深層を探り出そうとしている。
この本では、「靖国問題」が話の発端である。
しかし、政治家が特定の神社に参拝することの是非といった議論ではない。
靖国神社とはどういった神社なのか、その成り立ちが紹介される。
そこには、幕末の成立以降、近代化を目指す政府の動きと共に、神社の性質が変化していく姿が見えてくる。
祀られる対象の変遷、神仏分離政策、国家神道と言われる政治と宗教の関係、そういった動きの中で、靖国神社とはどういう役割を果たしていたのかが辿られる。
そこで、靖国神社の特異性を指摘し、それで良しとするのでもない。
更に遡って人が神として祀られる、という習俗を探ってゆく。
そこには、争いの敗者の祟りを恐れ、神として祀る「祟り神」タイプと、記憶し後世に伝えるために、神として祀る「顕彰神」タイプの二つを見出す。
そして、14の寺社の成り立ち、歴史をたどり、なぜ神として祀られるようになったのか、神として祀られる過程で働いている諸力は何か、そして、社会・共同体の中でどのような装置として位置付けられるのか、といった考察がされる。
そこで浮かび上がってくるのは、権力基盤の強化を図ろうとする「政」=「祀り」の対象としての姿である。
主に「祟り神」を鎮めるために祀り、そのことで社会、権力の安定を図る。
だがそれだけではなく、人々の記憶装置として祀り、そこに物語が付加されることで記憶は強化され、記憶装置として働くことで物語が更に付加されて行く。


こうした考察を通して浮かび上がってくるのは、政治的装置と宗教的装置のねじれであるようだ。
例えばこう考えてみる。
政治的装置は、共同体の調停者としての機能である。
政治的装置が機能するためには、必ずしも支配−被支配という、権力構造を意味する必要はない。
宗教的装置は、共同体が保有している物語を記憶し、祭祀や儀礼を通じて機能する。
その物語はこの世とあの世を繋ぎ、共同体の記憶として存在し、その記憶によって共同体が規定される。
この二つの装置は、並行して存在しているようでありながら、時折交差する。
政治的装置が宗教的装置を利用することもあり、弾圧しようと図ることもあるだろう。(むしろ、あっただろうと言うべきか)


小泉元首相が公式参拝に対する反論として、「内政干渉」と発言したことは、本人の意図していない部分で、問題の正鵠を得ていたのではないだろうか?
首相という政治的装置が、「公式」に「参拝」することが、何を意図しているのか。
戦没者の慰霊を通じ、戦争への反省を新たにするならば、全ての慰霊祭に「公式」に参加すべきであるが、そうしないことは何を意図しているのか。
そもそも「公式」と「私的」の違いは何であるのか。
無意識のうちに、そういった疑問に対する態度を露呈してしまったのではないだろうか。
しかしそれを指摘したところで、無意識を取り繕うか、否定するようなコメントが出てくるしかないだろう。
小松和彦は考察を進めて、寺社に限らない祭祀装置、記憶装置の比較、分析といった文化人類学的な展開を示唆している。
つまり、表層的な「する/しない」の問題の背後に、そこに至る広がりが示唆されている。


神になった人びと (知恵の森文庫)

神になった人びと (知恵の森文庫)