「イカの哲学」とは、波多野一郎氏の論文であり、それに感銘を受けた中沢新一氏が紹介し、自らの平和論を展開している。
波多野氏は、満洲に配置された特攻隊員であり出撃直前に敗戦となり、そこからシベリアへ抑留され、帰国後、アメリカへの留学をする、という経歴の持ち主であり、「イカの哲学」はその晩年(といっても50代)に書かれた。
アメリカでのイカ漁のアルバイトにて、イカの扱われ方からイカの実存を認識するに至り、戦争体験における非人道性との類似を認識したという。
そして、戦争における非人道性は、人間中心主義である従来のヒューマニズムで対抗するには限界があり、それを打ち破るものとして、イカの実存を認めるように考え方を変えねばならないという。
中沢新一氏はその主張を敷衍し、バタイユへの言及、超戦争に対抗する超平和、ヒューマニズムからエコソフィアへの転換を主張する。
その主張には首を傾げざるを得ない。
特にバタイユへ言及する辺りから、どうも雲行きが怪しい。
バタイユの「エロティシズム論」の解釈として、平常態とエロティシズム態を配置し、非連続的存在から連続的存在へのジャンプ、といった解説はすんなり理解できる。
だが、エロティシズム態において、戦争状態が存在する一方で、平和が自明ものとして存在しているという。
生命の根源的な有り様として、相手を絶滅させる手前で踏みとどまるリミットが存在するかららしい。
果たしてそれは、どうだろうか?
私は、バタイユにおける戦争体験、およびそれに対するレファレンスは、「アセファル」の試みである、と理解している。
そこでは全体性を回復するために、人間存在を無名性の闇に返し、秘教的儀式からの生還といった仕組みを試みているようだ。
その姿に自明な平和など認めている素振りもない。
極限にまで追い詰めた果てに、限界を突き抜けたものだけが認められるという、神秘体験がそこにはあるのだと思う。
したがって、中沢氏がバタイユへ言及する辺りから、どうにも議論が受け入れ難くなってしまう。
バタイユを出さなかったら、もう少し説得力があったのかもしれない。
と、ここまでは書いたところで、ふと思った。
このバタイユの読みは、ひとつの中沢氏の戦略なのかもしれない。
しかし、なぜバタイユなのか。
エコソフィアの主張であれば、例えばベイトソンという選択もあり得るのではないだろうか、と。
この本における中沢氏の議論はバタイユの読解にあるのではなく、あくまで存在の根源を否定する超戦争と、それに対抗するための超平和、という概念の対の構造にあるのだろう。
その議論に必要なのは、存在の根源に至る概念であり、その根源における二元性を主張することが必要だったのではないだろうか。
この世界を二元論で捉え、戦争と平和の対概念を根源に繋げること、それが議論の戦略だったのではないだろうか。
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