雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

左派と右派

電車の中で本を読む場合、いつも座れる訳ではないので、片方の手は吊革に掴まり、もう片方の手で本を支えて読むことになるのだが、それを右手にする時と左手にする時がある。
やや混雑した車内だと、左手で吊革を掴む方が体の収まりが良い時と、右手で掴んだ方がいい時があるから、この場合、必然的に反対側の手が本を支えることになる。
さて、座席は埋まっているのだが、吊革は全て空いている場合、右手で吊革を掴む、すなわち左手で本を支えるのか、それとも、左手で吊革を掴み右手で本を支えるのか、選択の自由が生まれてしまう。
その時、左手で本を支えているだろうか、それとも右手で本を支えているだろうか。
思い出そうとしても、よく判らない。
たぶん意識せずにどっちかを選んでいるはずなのだ。
自分が左派なのか右派なのか、よく判らないのだが、そのうち手が疲れてきて反対の手に持ち替えて転向する時に、ふと、左手で持っていたこと、あるいは右手で持っていたことを意識する。
いったい世の中に、どれぐらいの左派と右派がいるのだろうか。
推測で、なんとなく左派の方が多い気がしている。
それは右利きの人が多いことから、右手で吊革を掴む比率のほうが高くなり、必然的に左手で本を支えることになる、という理屈だ。
実証しようという気が起きるほど興味もないので、電車の中では忘れている。
きっと週明けも忘れているに違いない。
だが、世の中には、身体のバランスを巧くとりながら両手で本を支える人や、座席と戸袋のトライアングルに身を押し込んで両手で支える両手諸派が存在すると思う。
しかしもっとアクロバティックに、吊革を掴んだ手で本も支える極左や極右勢力も少数ながら存在するだろう。(新聞をそう読んでいる姿は目撃したことがある)
この左派と右派は、まだ公には知られていない、一定の比率で存在しているのに違いない、とぼんやりと思っている。