しかし、何度読み返しても、この本は飽きない。
そして、脳ミソが痺れたような、あるいは眩暈のような感覚になる。
ヘリオガバルスは、218年に14歳で即位し、222年に18歳で殺害された、バッシアヌス家のローマ皇帝である。
性的放縦、退廃、浪費、美食(というかゲテモノ喰い?)といったキーワードで語られる。
アルトーは、初期のシュルレアリスム運動に参加するが除名され、前衛演劇を切り開いてゆくのだが、狂気に陥り、精神病院で片手に靴を握りしめたまま亡くなる。
だが1960年代以降、スーザン・ソンタグ、ジャック・デリダ、ドゥルーズ=ガタリなどの思想家に取り上げられている。
この本は、ヘリオガバルスの伝記を書いているようでもあり、アルトーの思想を語っているようでもあり、また長編叙事詩のようでもある。
本文は3部構成で、まずは、バッシアヌス家およびローマ帝国、当時のシリアの太陽神信仰の概略が語られ、背景がざっと描かれる。
次に、「原理」について語られ、これはアルトーの思想を表明した部分だろう。
最後に、ヘリオガバルスがいかにして即位し、そして殺されるに至ったかが、まるで熱を帯びたかのような筆致で描かれる。
だから、最後だけ読めばいいかというと、それでは何が書いてあるのか判らない。
アルトーの著作が解り辛いのは、使っている言葉を説明するために、読者に近寄ってはくれないところだ。
それは、まるで根本から違う言語を、例えば日本語とフランス語が違うというレベルではなく、人の話す言葉と鳥たちの鳴声が違う、というぐらい異なっている言語で話されているようだ。
根本的に異なっているのだが、不明確なのではなく、むしろ超明晰だ。
その言葉たちに引きずり込まれ、思弁と神秘と史実が綯交ぜにかき回された文章を潜り抜けて、クライマックスへと連れて行かれる。
この本を要約することなど、とてもかなうものではない。
アルトーがヘリオガバルスに見出したのは、「原理の闘争」と「アナーキー」なのであり、2章3章の題そのものだ。
「原理の闘争」とはこの世界の根本、あるいは全体性の回復のための、形而上的な攻防といったことを指しているようだ。
例えば、太陽王でありながらローマ皇帝であること、太陽王として唯一神の象徴である「聖なる石」をローマに持ち込み、多神教の神々の像を破壊する、そこに太陽王によるローマ帝国統治の象徴的な意味を読み取る。
古代の史家たちが嫌悪をもって語るエピソードの数々に、アルトーはヘリオガバルスの象徴的形而上的な意図を読み取り、そこに詩情を見出す。
ローマ帝国という超巨大な官僚機構を、その権力の頂点から宗教的統治に塗り替えようとするヘリオガバルスの、その「アナーキー」さをアルトーは讃える。
ヘリオガバルス自身の性的放縦ですら、男性原理と女性原理の闘争を、自らの身体で具現化、つまりアンドロギュヌスを象徴的な次元で目指そうとするアナーキーさと捕らえているようだ。
原初における原理は絶えず闘争状態にあり、その原理を希求する闘争を、存在の根源を目指すアナーキーとして詩情を以て讃える、そしてそれは、存在の根源における全体性の獲得を追い求めるアルトー自身の姿と二重写しになっているかのようだ。
ヘリオガバルスまたは戴冠せるアナーキスト (白水Uブックス)
- 作者: アントナン・アルトー,多田智満子
- 出版社/メーカー: 白水社
- 発売日: 1989/06
- メディア: 新書
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