主人公が本郷信楽町に住んでいた頃の思い出話を語り出すかのように物語が始まる。
そこには、昔の東京(おそらく昭和初期)の姿が描かれる。
例えば、本郷を走る路面電車、神楽坂の待屋、銀座の掘割、山王の桜といった風景が現れる。
しかし、回想で語られる景色なので、物語が語られている時制では、それらは既に存在していない。
春に始まり、翌年の春に終わる時間の中で、主人公は様々な人々と交流し、様々な会話を交わす。
だが、主人公がいったいどういう人物なのか、何をして暮らしているのか良く判らない。
他の登場人物たちは、例えば自転車屋であり、学生であり、投資家(というより資産家といったほうが近いだろうか)である。
しかし主人公は作者とイコールなのだろうか。
それどころか会話を追っているうちに、どちらの発言だか混乱する時さえある。
これは奇妙な物語ではないだろうか。
物語の時間は、思い出として語られることで、二重に歪められている。
例えば、会話の時間、主人公の独白の時間は長く引き伸ばされる一方、この一年間にあった出来事の時間は、要点だけ掻い摘む様に縮められている。
これは、懐古趣味として、過去を語っているのでは無いだろう。
そして、主人公を含めた登場人物たちは、誰もが作者の考えを語っているようだ。
故意にぼやかされた過去を舞台として、作者の分身である登場人物たちが語っているのは、その時の「今」の肯定である。
だから、この作品はノスタルジックに「昔の東京」を描き、そこに何らかの感慨を込めているのではなく、架空の「東京の昔」を作り上げながらも、主人公がそれを回想している時点との等価値を主張しているではないだろうか。
現実であろうと架空であろうと、過去であろうと現在であろうと、その時の「今」を肯定すること、その点において、吉田健一氏らしい作品であるような気がする。
それにしても、本郷信楽町とは何処だ?
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持っているのは中公文庫版だけど、ちくま文庫で再発されたようだ
- 作者: 吉田健一
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