雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

太陽と鉄/三島由紀夫

「ミシマの俗悪さが好きだ」と、だいぶ前の記事で書いた記憶がある。(2008/7/11「殉教」)
読んだのが短編集だったからというのもあるかも知れない。
本棚を漁っているうちに、この「太陽と鉄」が目に付いたので読んでみた。
いつもはほとんど読まないのだが、解説を読んでみると、併録されている「私の遍歴時代」から読んだほうが良いという。
その通りにしてみると、なるほどそんな読み方もあるかと思った。
(だったら、最初から逆に並べておけば良いのに…)
「私の遍歴時代」は、小説家としての自伝的な読み物である。
どちらかといえば平易な言葉で書かれているが、時折、余分な観念的なものが混じる。
「太陽と鉄」は、逆に妙に観念的で説明の足らない言葉で書かれて、時折、即物的な表現が混じる。
この二篇はよく似たテーマを扱っているということが、そこから見えてくる。
それは、遅れてきた浪漫派が、成功を夢見ながら時代を追いかけ切れずに愚痴を吐く姿のように思えた。
まずは、二つの「太陽」である、終戦と初めての海外旅行について、前者の「太陽」には置いて行かれ、もうそこに戻ることの出来ない世界を表し、後者の「太陽」にはこれから迎合すべき、しかし追いつくことの出来ない世界を表しているのではないだろうか。
この二つの太陽の間に、ミシマは存在しているのだが、どちらにも属することは出来はしない。
もう戻ることの出来ない過去と、違和感を覚えている現在の狭間に棲んでいる。
そして、これらの「太陽」とは異なる軸としての「鉄」の話を持ち出す。
ある種のフェチシズムとも思えるような男性的肉体の賛美から、戦闘機や自衛隊体験が語られるのだが、そこで得たものは何だったのか、今ひとつ判らない。
己の肉体を鍛え上げて「鉄」の筋肉を装着すること、戦闘機を操り機械の肉体を獲得すること、そうして「言葉」と「肉体」の二元論における肉体原理主義的なものを導き出そうとして、ぐねぐねと観念をこねくり回し、「言葉」によって太陽的なる世界へ近づこうとしているようだ。
だが、最後に締めくくられるのは「死」の予感であり、イカロスであり、すなわち「鉄」の追求における到達不能さを告白しているようだ。
戦闘機に乗り込み、高度四万フィート上空で、雲の姿にウロボロスを見る。
そんなポップで俗悪なミシマの想像力がカワイイと思う。


太陽と鉄 (中公文庫)

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まったく余談ではあるが、「F104」はTOKYO №1 Soulsetの「黄昏'95」のフロウに引用されているようだ。
何で今まで気づかなかったのか。


Triple Barrel(紙ジャケット仕様)

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