雨の日は本を読んでいたい

あの時の本を読み返したら、今はどう思うのだろう。いつか読み返すために、思いついたことを書いておこう。読みたい本が尽きなければ、雨の日だって、晴れの日だって、読みたい本だけ読んでいたい。

仮面の告白/三島由紀夫

仮面の告白』とは何を意味しているのか、それがこの本を読み返すための鍵だと思った。
いったん『仮面』『の』『告白』と別けてみる。
『仮面』とは、素顔を隠すものであり、一方で新たな顔を形作るモノと言えそうだ。
だが、仮面に焼き付けられる『ワタシ』とは、主体にとって他者から見える、あるいはそう見えてほしい『ワタシ』であり、そこには何らかの作為が働いているようだ。
『告白』とは、秘めていたことを打明けることであり、あるいは「打明けているのだ」という意思表示でもあるようだ。
しかし、『告白』する/しないは主体の恣意であり、『告白』である/でないも主体の恣意である。
従って、それが本当の『告白』であろうとなかろうと、読み手には知る由もなく、更には知る必要も無く、そこに作者の「告白だと思って欲しい」という意図を読み取るべきではないだろうか。
そうすると、二つの名詞をつなぐ『の』が重要かもしれない。
『仮面』とその背後に見え隠れする『ワタシ』とのせめぎ合い、そして『告白』として読むことを強要される読み手とのせめぎ合いが、『の』でつながれたことによって二重に屈折する。
『告白』しているのは『仮面』なのか『ワタシ』なのか、それは『告白』なのか『虚構』なのか。
そう考えてみると、一人称のこの小説を読み進めることは、とてもスリリングな体験になるだろう。
生まれたときの記憶(恐らく偽装された記憶)に始まり、同性愛者としての回想、血や死への固執、肉体的なるものへの指向、戦争体験における距離感、次々に披露されるエピソードはどれもが虚構に思えてくる。
だが、それらが虚構だろうか打明け話だろうかと、真偽を詮索し、分類することはこの本を読んだことにはならないだろう。
同じように、この本に隠されたミシマの姿を暴き立てるのも、読んだことにはならないだろう。
思うに、作り上げられた『仮面』の良し悪しと『告白』の下世話さを味わうための小説なのだ。
『仮面』を構成するための小道具は、同性愛、肉体的なるもの、血や死への固執、といったところか。
この作品が書かれた昭和二十四年ということを考慮すれば、かなりあざとく、話題性に狙いをつけたものだろう。
つまり、そこには売れるための、周到な準備があってのことだろう。
そして『告白』の下世話さは、思考の独白よりも、事物の描写において、悪意すら感じるほどに力が込められているようだ。
このミシマのポップさ、俗悪さは、他に類を見ないと再認識したのだった。

仮面の告白 (新潮文庫)

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